サンクチュアリ



 遠い昔、夢を見ていたことがあった。
 空はどこまでも澄んでいて、風は優しい。
 足元には、あの人の愛した花々が咲き誇っている。
 この風景は、いつまでも続いていくのだと、そんな夢を見ていた・・・。



「・・・っと!ちょっと!!」
 呼ばれる声にはっとして、男は―ハリードは慌てて目の前の若い娘に焦点を定めた。
「あ・・・ああ、すまん。何だ?エレン」
 エレンと呼ばれた娘は、やれやれと言ったようにため息をついた。
「何だ、じゃないわよ。さっきから散々声掛けてるのに。・・・これ、持ちきれないから少し持って」
 そう言って、エレンは両手いっぱいに持っていた花を、少しハリードに渡した。
「なんだ・・・?これは」
「見て分からないの?花よ」
「花は分かるが、なんでこんなものを持ってるんだ」
 わけが分からないと言うように、ハリードは首を傾げた。
「それがね、さっき町の花売りの女の子が、カートを横転させちゃったの。で、もう花が売り物にならないって困ってたから、全部買い取ってきたのよ」
 両手に抱きしめた花の匂いを嗅ぎながら、エレンは答えた。
「売り物にならない花を買い取ったのか?」
 馬鹿にしたようなハリードの言い方に、エレンは少しむっとする。
「何よ、悪いの?・・・だってかわいそうじゃない。サラと同じ年くらいの女の子だったのよ。ほっとけないわ」
「・・・ただでさえ金に余裕がないのに」
 ここ何日かの金銭事情を案じたハリードは、ぼやく。
「ああもう!いいじゃないの!こういう時ぐらい。まったく、ハリードってばホントにお金にうるさいんだから。・・・お金に余裕がないことぐらい、あたしだって分かってるわよ。だからちゃんと考えてあるってば」
 得意げに言うエレンに、ハリードは眉を寄せる。
「どんな考えだ?」
 尋ねられて、エレンはにっこりと笑った。
「宮殿の人に買い取ってもらうのよ」
 そう、ハリードとエレンの二人は、ロアーヌの宮殿に向かって歩いていた。
 宮殿の中では、エレンの妹のサラと、そして幼馴染のトーマスが待っている。
 シノンの村で育ったエレン、サラ、トーマス、そしてつい何ヶ月か前に3人と出会ったハリードは、旅を共にする仲間であった。
 暫くこの東の大陸を離れていた4人であったが、ここロアーヌが、彼らの敵ともいえる四摩貴族の一人、魔龍公ビューネイに襲撃されたと聞き、再び東の大陸へ戻ってきていたのであった。
「宮殿はあれだけ大きいんだもの、花を飾る場所くらいたくさんあるでしょ」
 エレンはそう言ったが、いきなり大量の花を持って行って、果たして買い取ってくれるものかどうか、ハリードは案ずる。
「何かツテでもあるのか?」
「ツテ?・・・何よそれ、そんなのあるわけないじゃない」
 どうやら、エレンはあまり深く考えていないようである。
 ハリードは深いため息をついて言った。
「何のツテもなく、いきなり花を持っていって、誰が買い取ってくれるっていうんだ。まさか、あのミカエルに直接持っていく気か!?それこそ一瞥されて終わりだぞ」
「・・・」
 そう言われればそうだと、エレンは痛いところを突かれて口篭る。
 が、やがて気を取り直したようににっこりと笑った。
「大丈夫よ。だってこっちにはトムがいるし!トムは今やトーマスカンパニーの社長よ。商売ならアイツに任せたらなんとかなるわ」
 そう言って勝手に納得して、エレンは機嫌よく笑っている。
 そんなエレンを見て、ハリードもやれやれと笑うしかなかった。
 彼とて、美しい花々が嫌いなわけではない。
 金に余裕があるのなら、この花々をそのまま買い取ってあげたいとさえ思っているのだ。
 彼がそう思っているのかを見透かしたように、エレンは無邪気に言った。
「ハリードだって、花は好きでしょう?」
 その、瞬間だった。
 ハリードの足は急に歩みを止める。
 彼の記憶は、あの日のあの時間に、引き戻されていた。



「エル・ヌール・・・」
 それは、あの遠い日の夢。
 失われた王国で、愛しい姫が彼の名前を呼ぶ。
「エル・ヌール。花は好き?」
 そう言って、優しく微笑むあの人のあの顔。
 愛しくて、懐かしくて・・・たまらないほど胸が痛む。
「私は花が大好きなの。ねぇ、エル・ヌール。あの丘に行きましょう。きっと、今日も花が綺麗に咲いているわ」
 そうして、奇跡のようなあの場所で。
 一面を埋め尽くす、天国のような花畑で。
「見て、エル・ヌール。やっぱり花はこうして野に咲いている姿が一番ね」
 咲き誇る花に囲まれて、笑うあの人の姿は美しい。
「ああでも、いつかこの両手いっぱいに花を持ってみたいわ。溢れるほどの花を、この腕に抱きしめられたら素敵・・・」



「ハリード!」
 名前を呼ばれた瞬間、彼は現実に引き戻される。
「ちょっと・・・大丈夫なの?さっきから・・・」
「・・・ああ」
 目の前にいるのは、エレン。ファティーマ姫のはずがない。
 だが、よくよく考えてみれば、エレンはファティーマ姫に似ている。
 愛しい人の面影を宿したエレンの笑顔。そしてこの匂いたつ花々の香りが、遠い昔に封印した記憶を呼び起こしてしまったのだろう。
(愚かな・・・エレンに姫を重ねるなど・・・)
 ハリードは、自責の念に駆られる。
 そしてやがてほっとため息をつくと、大丈夫だ、というようにエレンの方を向いた。
「すまん、少し疲れていたようだ。早いところ、宮殿に向かおう」
 そうしてツカツカと歩きだすハリードに、エレンは首をかしげながら後に続いた。



 ロアーヌの宮殿では、旅の支度を整えるトーマスとサラが、エレンとハリードを待っているはずであった。
 既にビューネィの居所を、ロアーヌ領主であるミカエルから教えてもらい、目的地は決まっていた。
 だがしかし、相手は四魔貴族の一人。壮絶な戦いになるのは目に見えていた。
 それだけに、うかつにビューネィの元に行くわけにもいかず、仲間達は一旦ロアーヌに留まり、戦いの準備を整えていたのであった。
 宮殿内の部屋を使っていいというミカエルの言葉通り、彼らはこの数日、ロアーヌの宮殿に寝泊りしながら、城下町に武器や防具、そして道具を買出しに出かけていた。
「おかしいわね、トムとサラったらどこ行ったのかしら」
 四人が借りた部屋に、トーマスとサラの姿は無かった。おそらく二人も何かしらの用意のため、出かけていたのだろう。
「・・・ま、自分でどうにかしろというわけだ」
 ハリードがチラッとエレンを見ると、エレンはムキになったようにふくれっつらをして言った。
「わかったわよ。自分でなんとかすればいいんでしょ!」
 そして、エレンが目の前の扉を開け放った次の瞬間。
 バサッ・・・!!
 エレンは、手に持っていた花をすべて床に落としていた。
「おい・・・!エレン!何してるんだ」
 エレンの後ろにいたハリードは、慌てて花を拾おうと、しゃがみこむ。・・・と、その時。目の前に誰かの足があるのが見えた。
 ハリードは顔を上げる。
「お前は・・・」
 ハリードの、そしてエレンの目の前にいたのは、シノンで皆と別れた、ユリアンであった。
「あ〜あ、見事にぶちまけちゃって・・・」
 時が止まったように微動だにしないエレンをよそに、ユリアンもしゃがみこんで花を集める。
「よ、ハリード。ひさしぶり」
 しゃがみこんだ低い姿勢でハリードと視線を合わせると、ユリアンは屈託無く笑った。
「そうか、そういえばお前はロアーヌにいたんだったな」
「ああ。それでついさっき、ミカエル様から皆がここにいるって話を聞いてさ、会いに来たわけ。・・・で、この大量の花は何なんだ?」
「それがまぁ、いろいろあってな・・・」
 そうぼやいてハリードはちらりとエレンを上目で見るが、エレンはまだ、凍ったように動かない。
「ユリアン、お前から宮殿に売り込んでくれないか。俺達が持っていても仕方ないんでな」
 何も言わないエレンの代わりに、ハリードはユリアンに頼む。
「う〜ん・・・わかった。じゃあ、知り合いの侍女に話を通してみるよ・・・よいしょっと」
 そう言いながら、ハリードと共にすべての花を集めたユリアンは立ち上がり、もう一度エレンの前に立っていた。
「エレン・・・」
「・・・」
 じっとエレンを見つめるユリアン。だがしかし、エレンは何もいわない。
「エレン、ひさしぶり・・・元気だったか?」
 優しく問いかけるユリアンに、やがて、エレンは掠れた声で答えた。
「・・・しに・・・の?」
「え?」
 そして次の瞬間。
 今まで微動だにしなかったエレンは、まるで抑えていた感情が流れ出すかのように、ユリアンに食いかかっていた。
「何しに来たのって言ったのよ!!」
「おい、エレンそんな言い方は・・・」
 まるで、自分達に会いに来たのを非難するかのように、ユリアンに食いかかるエレンを、ハリードは制しようとしたが、逆にユリアンがそんなハリードを止める。
「いいんだ、ハリード」
 そう言ってユリアンは、もう一度エレンに向き直った。
「エレン、トム達と一緒に、ビューネィ討伐に志願したんだってな。・・・俺も、一緒に行くよ。それを言いに・・・」
「来なくていい!」
 ユリアンが最後まで言い終わる前に、エレンは叫んでいた。
「今更、どうしてあたし達と一緒に行くなんて言うのよ。アンタは、モニカ様の護衛でもしてればいいでしょ!」
 そう言って、エレンは部屋を飛び出す。
「おいっ!エレン!」
 ハリードの声も、エレンには届いていないようだった。
 そうして、ハリードは心配そうにちらっとユリアンを見る。
 ハリードと目が合うと、ユリアンは自嘲的に笑った。
「・・・嫌われちゃったみたいだな」
 そう言ったユリアンは、この上なく悲しそうで、見ているハリードの方が胸が痛んだ。
「お前、プリンセスガードになったのは、モニカ姫が好きだからじゃなかったのか」
 ハリードは、ずっとそう思っていた。そう、今この瞬間、目の前のユリアンの表情を見るまでは。
「・・・違うよ。俺は、ただ、強くなりたかった。宮廷には強い人がたくさんいるし、それで・・・」
 ユリアンは、そこでほっと息をつき、呟いた。
「エレンのためだったんだ・・・」
 独白にも似た呟きを聞いて、ハリードはやれやれと言うようにため息をついた。
「だったらそれを、ちゃんと本人に言う事だな」
 そうして、持っていた花をユリアンに渡す。
「ともかく、今は俺からエレンに言っておく。だが、肝心なところは自分で言えよ。・・・それから、花を頼んだぞ」
 言いながらハリードはエレンを追って走り出す。
 抱えきれないほどの花と共に一人残されたユリアンは、今はただ、打ちひしがれたように、何も言わずにその場に立ち尽くしていた。



「おい!エレン」
 ハリードは、中庭に面した宮殿内のバルコニーでエレンを発見した。
「なんだ、ハリード・・・」
 エレンはいつに無く元気がない様子で、ハリードの方を振り返った。
「なんだ、とは随分だな。・・・ユリアンじゃなくて悪かったな」
「誰がユリアンなんか・・・!」
 ハリードの言葉に、エレンはムキになる。
 が、ハリードはそんなエレンを無視して、話をすすめた。
「エレン、お前ユリアンが好きなのか?」
 それは、エレンにとって思いがけない質問だった。
 なにしろ、これまでのエレンは、ユリアンからデートに誘われては、つれなく断る立場だったのだから。
「はぁ!?あたしがユリアンを!?・・・じょ、冗談じゃないわよ!何であたしが・・・!」
 ますますムキになるエレンを見て、ハリードはどうやら自分の考えが正しかったのだと確信する。
「だったら、どうしてさっきあんな態度をとった」
 咎めるようなハリードの言葉。
 エレンは、少なからず先ほどの態度を後悔しながらも、それでもどうしても許せない、とでも言うかのように声を荒立てた。
「・・・だって・・・だって今更何なのよ、ユリアンってば!アイツ、あたし達を置いて勝手にモニカ様の所に行っちゃったくせに!」
「ユリアンにもいろいろ考えがあったんだろう」
「だけど!・・・だけど・・・」
「それに今、ユリアンはビューネィ討伐の手助けをしてくれると言っているんだ。それのどこが悪い」
「それは・・・そうだけど・・・。だ、第一どうしてユリアンが今ロアーヌにいるの!?確か、モニカ様は用があってロアーヌにいないって聞いてたのよ・・・。だからユリアンもロアーヌにいないはずでしょ!?」
「だから、俺達に手を貸してくれるために、わざわざモニカ様のもとを離れてロアーヌに戻ってきてくれたんだろ。願ってもないことじゃないか」
「・・・」
 ハリードの言う事は、すべてもっともだった。
 エレンは言葉を失って、黙り込む。
 やがてハリードはため息を付きながら言った。
「エレン、分かってるのか?お前の言ってることはただの―」
 ヤキモチだ。
 そう言いかけて、ハリードは途中で言葉を飲み込む。
「ただの、何・・・?」
 言葉の続きが気になったのか、エレンはじっとハリードを見つめる。
「・・・我侭だ」
 ヤキモチと我侭では、随分と言葉のニュアンスが違ったが、ハリードは敢えて訂正しようとはしない。
「・・・」
 エレンは、ハリードに逃げ場がないほどはっきり言われてしまい、さすがに反論の言葉もなくうつむいた。
 そんなエレンを見て、言い過ぎたかと少々後悔しながらも、ハリードは言葉を続けた。
「とにかく、よく考えろ。今、お前がどうするべきか」
 ハリードの言葉に、エレンはうつむいたまま、小さく頷く。
「・・・ユリアンに、謝ってくるわ・・・」
 そうして重い足取りで歩き出すエレンに、ハリードはもう一度、声を掛けた。
「エレン、あまり意地を張るなよ」
 いつものエレンなら、むっとして反論するところであったが、もはやそうするだけの余力はなかったのか、何も言わずに宮殿の中に入っていった。



 エレンのいなくなったバルコニーで、ハリードは一人考える。
(さっき、どうして俺は素直にお前のヤキモチだ、と言わなかった?)
 その答えは、とうに分かっていた。
 ・・・ハリードはまた、重ねてしまっていたのだ。エレンに、ファティーマ姫を。
 だからこそ、他の男にヤキモチを焼くエレンを、素直に認めたくなかったのかもしれない。・・・まるで最愛のあの人が、他の男に恋をしているかのように思えてしまうから。
(しっかりしろ!ハリード!つい先ほど、この愚かな考えを打ち消したばかりではないか・・・!)
 彼は再び、苦悩する。
 自分が、知らず知らずのうちに、ファティーマ姫の代わりを探しているのだと分かり、彼は激しく自分を嫌悪した。
 分かっていた。人は、誰かの代わりになど、なれるはずもない、と・・・。
 それに、誰かをファティーマ姫の代わりに愛すること。・・・それは、ファティーマ姫がもうこの世にいないことだと、そう認めてしまうことに他ならなかった。
 彼は、それがたまらなくイヤだった。認めたくは無かった。・・・信じていたいのだ。姫は、まだ、生きていると・・・。
 ふと、自分の服の胸元に、先ほどまで抱えていた花の花弁が一枚、付着しているのに気がついた。
 彼はその花弁を取り、手のひらの上に置くと、空を仰いだ。
 ―溢れるほどの花を、この腕に抱きしめられたら素敵・・・。
 そう言って笑った愛しい人。
(姫―・・・)
 空は目に沁みるような美しい青で、彼は、思わず片手で目を覆った。
 彼は祈る。
 どうか、この世界の遠いどこかで、あの人もこうやって空を見上げることがありますように。
 そしてどうか、その場所には、あの人の大好きな花々が咲いていますように―。



 風が吹いた。
 ハリードの手から、ちいさな花びらが空に舞う。
 目を覆った手の隙間から、淡い光の粒がひとしずく、彼の頬をつたっていった・・・。






[ No,23 あかり様 ]