「こんな……こんな事って……」
 寝台に半身を起こしている若い母親は、生まれたばかりの赤ん坊を胸に抱いてむせび泣いた。
「産まれてはいけなかったのかもしれない……」
「ばかな事を言うな」
 そばの父親は赤ん坊ごと妻の体を強く抱きしめた。
「ばかな事を言うな。産まれてきてはならない子なんていない」
「だって、」
 泣きながら妻は、こわい顔をしている夫の横顔を見つめた。
「死食なのよ? 生を受けたものは全て死に絶え、生き残ったものは……」
「この子は宿命の子なんかじゃない。ただの、おれたちの大事な娘だ。村の者にはおまえは実家で子供を産んだと言ってある。産後の肥立ちが悪くて、当分安静にしているとも。しばらく時間を置いて、死食の直前に産まれたと言って戻れば誰も疑いはしない」
「でも、私たちが隠しても、宿命がこの子を捕らえに来るかもしれないわ」
「誰にも渡しはしない。たとえそれが定められた運命であったとしてもだ。おれたちの子供なんだ。親であるおれたちが守ってやらなくてどうする。おれはこの子を魔王にも聖王にもさせやしない。この子には普通の幸せを手に入れて欲しいんだ。そのためには、何があってもこの秘密を守り通すしかないんだ」
 涙をこらえながら父親は、何も知らずに母親の腕ですやすやと眠っている娘の顔を見つめた。

 眠れなくて、サラはランスの街外れにある宿からそっと出た。
 夜はすっかり更けている。暗闇に目を凝らして、サラはぶるっ、と小さく震えた。骨まで凍えるような寒さのためだけではない。足元さえおぼつかない暗さのためである。
 暗いのは怖い。
 だが、あまり何度も寝返りを打って、同室の仲間たちを起こしてしまう事を恐れたのだ。凍って滑りやすくなっている足元に注意しながら宿の前の階段を下りたサラは、昼間のヨハンネスの言葉を思い返して深いため息をついた。
 アビスの噂は本当だった。信じたくなくて、今まで必死にそれを打ち消していたけれど、死食を専門に研究している高名な天文学者の口から聞いてしまった以上、否定する事はもう出来ない。
 階段の下にしゃがみ込み、膝の上で組んだ腕に額を押し当てる。
 覚悟をしていたとはいえ、怖かった。こうしている間も、魔貴族たちはゲートを広げようとうかがっているのだ。
 サラは顔を上げた。
 人のけはいを感じたのだ。
 街の入り口にある階段から、大きな荷物を担いだ人影が下りてくるのが見え、どきん、と心臓が縮み上がる。
 こんな夜遅くに誰だろう。泥棒だろうか。
 だが、後数段という所でその泥棒は足を滑らせたのか、大きくひっくり返った。肩に担いでいた大きな荷物が、雪の中に埋まるのが見える。声も出ないままびっくりして見つめていたサラは、その人物に見覚えがあるのに気がついた。アビスゲートの話を聞かせてもらった当本人、天文学者のヨハンネスだ。
「ヨハンネスさん」
 小さな声であったが夜の静寂をぬって、男は腰をさすりながら消えずにいた明かりを顔の前に掲げて振り返った。やはりヨハンネスだ。
 一瞬、誰だか分からないようであったが、すぐに照れたような笑みを浮かべる。
「君は、……サラさん、でしたか?」
 サラはうなずきながらヨハンネスのそばに駆け寄り、雪の中に埋もれた大きな器具を引っ張り出すのを手伝った。長細い、筒のような物だ。
「大丈夫ですか?」
 ヨハンネスは器具を調べながらうなずいた。
「ああ、大丈夫みたいだ」
「いえ、ヨハンネスさんの体が……」
「ん?」
 ヨハンネスは顔を上げて、それから自分の体を見下ろした。寒さ対策万全の着膨れた姿だ。首や肩を回して、それから慎重にうなずいて見せた。
「私の体も大丈夫なようだ」
 自分の胴体ほどもある大きさの筒を抱えたままの、重々しい口調を聞いてサラは思わず微笑んだ。
「よほど大切な物なんですね。なんですか? それは」
 ずれた眼鏡を直して、ヨハンネスは誇らしそうに言った。
「これは、私が作った天体望遠鏡だ。今夜は三十年に一度の流星群が見えるんだ」
「流星群?」
 首をかしげたサラに、我が意を得た、とばかりヨハンネスは得意そうに説明した。
「流星群とは、大気に突入してきた宇宙屑、つまり流れ星のおびただしい群れの事だ。一説には、彗星が崩壊した後が、軌道に乗ったと言われている。特に今夜は雨のように降りしきる星の数々が見られるはずなんだ」
「へえ」
 感心したサラに、興味を持ったと思ったのかヨハンネスはぎこちなく微笑んで見せた。
「よかったら、一緒に見るかい?」
「え? でも、あまり遅くなると、みんなが心配するといけないから……」
「街の外に出るだけだから、そんなに遅くはならない。それより、今夜の流星群を見逃したら、次の流星群が来る四十三年後まで見られないんだよ」
 それは別に構わないのだが、あまりに熱心なヨハンネスの誘いを断りきれず、サラはあいまいにうなずいた。
「じゃあ、ちょっとだけ……」
「よし、なら行こう。滑るから足元に気をつけるように」
 うなずいて、サラはヨハンネスの荷物を持つのを手伝った。何しろ、あまりにも大荷物なのだ。肩に掛けた望遠鏡の他に、背中と肩に大きな袋を下げている。これではひっくり返ってしまうのも無理はないかもしれない。
 雪道に慣れていないサラに構わずどんどん歩いていくヨハンネスの背中に不安を覚え始めた時、ようやく彼は立ち止まった。
「この辺りがいいな」
 郊外の丘の上でヨハンネスは袋の中から望遠鏡の三脚を取り出し、てきぱきと準備し始めた。何を手伝えばいいのか分からず、ぼうっと見つめていたサラに、準備を整えたヨハンネスは手招きをする。
「流星群を待つ間、覗いてごらん」
 言われるままに望遠鏡を覗き込んだサラは、驚いて小さな悲鳴を上げた。すぐ目の前に、大きな赤い星が見える。
「火の星と呼ばれるアルゴンだ。その隣に小さく輝いている星が、アルゴンの衛星である、コラド」
 望遠鏡から目を離したサラは、今の星を探そうと夜空を見上げた。腰に手を当てたヨハンネスは、望遠鏡の直線上を指差す。
「今、そこに見えているのは、あの辺りにある星たちだ」
 言葉をなくしたままサラは何度も、筒の中の星と夜空の星を見比べた。肉眼でようやく見えるほどの小さな星だが、望遠鏡を通して見ると、手に取るように大きく見える。
 感嘆のため息をつきながらサラは、満足そうな笑みを浮かべているヨハンネスを見た。天文学者である彼は、星に興味を持ったらしいサラの様子に嬉しそうだ。
 望遠鏡から体を離してサラは言った。
「そうか、天体観測は夜しか出来ないから、昼間はずっと眠ってるんですね」
 ヨハンネスは苦笑を浮かべた。
「子供の頃から宵っ張りで、朝が苦手だっただけだ。学校も嫌いだったしな。父親と一緒にこうやって望遠鏡を覗いている時が一番楽しくて、それが学者と呼ばれるようになっただけかもしれない」
 その言葉を聞いてサラの顔から笑顔が消えた。ヨハンネスとアンナの父親は死食を発表したせいで、世の中を惑わす煽動者として処刑されたという話を思い出したのだ。
「……ごめんなさい、つらい事を思い出させてしまって」
「構わない」
 袋から水筒を取り出しながら、淡々とヨハンネスは言った。
「誰だって、そんな話を聞けば恐怖に取り付かれる。聖王が終わりにしたはずの死食が蘇るなんてありえない、と」
 そう言って水筒から湯気の立ち昇る飲み物をサラに手渡す。
「私が炒れたお茶だから、味に保証はもてない」
 それを受け取りながらサラは恥ずかしさにうつむいた。昼間は、変人に見えた目の前の天文学者の偉大さに気づかなかった自分の心の狭さを恥じたのだ。ヨハンネスのくれた熱いお茶は、冷え切った体に染み入る。
「……心が広いんですね。ヨハンネスさんは。民衆にお父さんを奪われても、その民衆のために今も星の観測を続けて死食の謎を解き明かそうとしている」
「好きでやっているだけだ」
「でも、」
 サラはヨハンネスの顔を見上げた。
「私だったら……私だったらもしかしたら、今ごろ慌てても遅い、いい気味って思ってアビスの四魔貴族の居場所とかも教えないかも」
「そうして、みんな滅びるか?」
 ヨハンネスは夜空を見上げた。
「……つらい時期がなかったわけじゃない。でも、私には、私を信じてくれている妹を父親代わりとして守る義務があるんだ」
「…………」
 サラは言葉を失ってヨハンネスの顔を見つめた。確かにそうだ。このままでは世界は滅び、人類を含む全ての生き物は死に絶えてしまうかもしれない。その中にはたった一人の妹であるアンナの命も含まれている。
 ヨハンネスは続けた。
「それに、見てみなさい。この星たちを見ていると、私たちの苦しみや悲しみもちっぽけなものに思えてこないか?」
 ヨハンネスと同じようにサラも星夜を見上げた。昔、トーマスから借りた本の中の一節を思い出す。星の一生は想像もつかないほどに永く、それに比べれば人の一生はほんの一瞬の間でしかない、と。
 サラは夜空を見上げるヨハンネスの横顔を仰ぎ見た。
「ヨハンネスさん……私たちのこの星は、滅びてしまうんでしょうか?」
 昼間の話を聞いてから、ずっと気にかかっていた事だ。そのせいで今まで眠れずに、寝床の中で何度も寝返りを打っていたのだった。
「滅びます」
 あっさりと言ってヨハンネスは、再び望遠鏡を調整し始めた。それは例えて言うならば『明日は雨です』というような当たり前の調子だった。
「え?」
 びっくりしてサラはヨハンネスを見つめる。調整を終えたヨハンネスは息をのんだままのサラに気がついて微笑んで見せた。
「いつかは、ね。星はいつか滅びる。それは天文学の基礎知識だ」
「なんだ、びっくりした」
 笑みを浮かべたサラにヨハンネスは言った。
「でも、そのいつかが、いつなのかは誰にも分からない。アビスの脅威がある以上、もしかしたら、もう私たちに残されている時間はあまりないのかもしれない」
 ヨハンネスはサラを見つめ返した。
「形あるもの、いつかは滅びる。永遠なんてものは存在しない。今、私たちが見ているこの星々だって、もしかしたらもうなくなっているかもしれない。遠い所にある星の光がここまで届くためには気の遠くなるくらいの時間が経っているからね」
 ヨハンネスは星空に目を戻した。
「……ただ一つ、永遠というものがあるとすれば、それは人の記憶かもしれない。世界が滅びても、誰かが誰かを愛しく想った記憶だけは、なくならないと思う。その想いは永遠に宇宙を漂い続けるんじゃないかと」
 サラはしばらくヨハンネスを見つめていたが、やがてくすっ、と小さな笑みをもらした。それに気がついたヨハンネスは照れくさそうに頭をかいた。
「や、私に似合わない事を言ってしまったな。今の言葉は忘れてくれないか」
 サラは微笑みながら言った。
「すてきだと思います。現実主義者である天文学者であると同時に、星の声に耳を傾ける浪漫主義者でもあるんですね」
 ヨハンネスは堰払いをした。暗くて分からないが、きっと真っ赤になっているに違いない。
「君は……不思議な子だね。誰にも言えないような心の秘密も、君にはつい話したくなる。今日、会ったばかりなのにね」
 サラはびっくりした。旅を共にしている少年も、そんな事を言っていたのだ。それは言葉少なで、内気だからだろうか。
 だがそれは、なんだか嬉しい気がした。
「ところで、」
 ヨハンネスは口調を変えてサラを見た。
「どうして君たちはアビスの情報を聞きに来たんだい?」
 サラは飲み終わったお茶の入れ物を雪で洗いながら言った。
「……私は、死食の直前に産まれたそうです。早産だったから、今こうして生きているけれど、本当だったら死んでいたはずだったって。だから宿命の子に興味があるんです。天文学者のヨハンネスさんだったら、宿命の子に関する情報も知っておられるかな、と思って」
「なるほど」
 ヨハンネスはうなずいた。
「それは、わざわざ来てくれたのに申し訳なかった。宿命の子に関する情報は私も知らない。ただ、知っているかい? 今回の死食は特殊だった。過去の記録では約一年間、闇に閉ざされたとあるが、今回は一年に満たなかった。幸いに、その事で大飢饉を回避できたわけだが、このずれが何らかの影響を与えていると私は考えている。つまり、もしかしたら宿命の子は、この世に生を受けていないかもしれない。それでも君たちは探し続けるかい?」
 サラはかじかんだ両手をそっと握り締めた。どこかで狼の寂しげな遠吠えが聞こえる。
「正直言って、宿命の子とかアビスっていうのはよく分からないけれど、一緒に旅をしている神王教団長のティベリウスさんは、罪とは絶望する事だと言っていました。その言葉の意味は、私分かる気がします」
 サラはヨハンネスを見上げて小さく笑った。
「私思うんです。笑わないでくださいね。ティベリウスさんが神王って呼んでいる、宿命の子っていうのはみんなの心の中にいる希望じゃないかって。どんなにつらい時でも、その心の中の希望を信じてみんなが絶望さえしなければ、きっと平和な世の中になると思うんです」
 ヨハンネスは深くうなずいた。
「つまり君は、宿命の子という名の希望を探しているんだね」
 サラは恥ずかしそうに肩をすくめた。
「なんて、偉そうに言ってるけど、もしかしたら私に出来る事を探しているだけかも。私、旅に出るまで自分は何も出来ない無力な存在だと思っていました。でもそうじゃないんです。何もしようとしなかっただけだという事に気づいたんです。今までまわりのみんなに大事に守られてきただけだったけど、みんなのために私が出来る事を見つけたいっていうのが、一番本当の目的かもしれません」
「……見つかるんじゃないかな。いつか、きっと」
 微笑みかけたサラは夜空を流れる一筋の光の残像を見つけて、歓声を上げた。
「流れ星、」
 慌ててヨハンネスは望遠鏡を覗き込む。
「いよいよ始まるかな、星たちが織り成す大展覧会が」
「あ、また流れた」
 願い事を言う暇もなくあっという間に流れてしまう星たちを見つめながらサラは思った。
 夜の空がこんなにきれいなんて、今まで知らなかった。
 暗闇でしか見えない美しさがあるという事を知らなかった。
 それに気がつく事で、今までよりも暗闇が少し怖くなくなった気がした。

──終──


[ No,153 しなち様 ]