揚羽蝶の記憶
 糸杉のうねる長い小道は何処までも続くようで、色彩は淡さを欠いた真黄色の太陽が、ただただひたすらにこの地面へと光を投げつけてくる。どれくらいこの場所に立っていたのだろう。僅かなひとときなのか、それとも長い年月なのか。見たこともない風景なのに、知っている場所のような気がして、ただ印象だけが強烈に焼きつき、そして一歩も動けない。
 ここは何処だろう?
 記憶をたどるんだ。

 今日はとても良く晴れた日で、ミカエル様は遠乗りにひとりで出掛けていった。そもそも「遠乗り」なんて名ばかりで、ブラリと遠くへ行くための口実でしかない。俺がいつからあのひとに仕えてきたのか、自分でもよく覚えていないけれど、とにかく長い長い時間、あのひとの代わりを努めてきた。あのひとが馬なんかでその辺を走ったりしていないことは、すぐに判るし知っている。そんな俺に対してでも口実をつくって出掛けていった。
 確かにロアーヌの城にいたはずだった。あの、いつもの部屋だ。屋根裏で寝転がっていたら、ミカエル様から呼び出されて部屋へ下りたんだ。

「いつものように後を頼む」
 このひとは、いつもそうなんだ。
「あの、失礼ですが…いつも何処へ?」
 珍しく尋ねた。すると、こう答えたんだ。
「遠乗りに」
 質問とはややかみ合わない言葉を口にして、このひと自身少し黙った。
 きっともう、上の空なんだ。この城のことを全部他人に任せておいて、随分テキトウなことをする王様だな。でもそんな事、このひとの前で言えるわけがない。
「何か言いたそうだな」
 眉をひそめて、こっちの顔をみる。このひとは機嫌を悪くすると、すぐに眉をひそめるんだ。
「あまり城を空けないほうがよろしいかと存じます」
 言葉を選んでこう言うと、相手は仕事用の表情でこう尋ねた。
「何か問題でも?」
 そういうんじゃないんだ。
「いえ、特筆するべきことは何も…」
 この言葉はすぐに信用されて、ミカエル様は城を出ていった。あのひとは俺の言葉をちゃんと信じてくれるし、重要な仕事だってためらいもなく命じてくる。
 でも、あのひとの言っている事や考えている事がイマイチわかんないんだよな。
 正直言うと、特に最近はあのひとより俺のほうが王様をやっている時間が長い。もちろんずっと「ミカエル侯」が仕事をしていることになっているけれども。
 ここで言いたいのは、この城は俺のものじゃなくてあのひとの物だってこと。いや、城なんて物でしかないから、他人の俺に任せたって何ら問題は無いかも知れない。でもモニカ姫はあのひとの妹であって、俺の妹じゃないし。カタリナやその他の忠実な家臣たちだって、あのひとの部下なんだ。立場上、「ミカエル様」が城にいなくちゃいけないのはよくわかる。国王不在の城ほどもろいものはない。
 でも、あんまり回数を重ねると、あのひと、城内の人や国民を裏切ったことになるんじゃないだろうか? モニカ姫が大切な話をしてきたときに、あのひとが聞いてやらないで、俺が聞いてたりしたらどうなんだろう。
 いいや、王侯貴族のつきあいなんて、家族でも肩書だけなのかなァ? 俺は、貴族じゃないからわかんないや。
 でも、「遠乗り」だなんて、もう少しマシな言い訳をしろよ。ひとりでどっか遠くへ行くんだろ? だいたい、馬じゃなくて船に乗るつもりでしょうが。

 そこでいつものようにミカエル様の真似をして、部屋にこもっていた。
 外は穏やかに晴れていて、仕事を早めに済ませた俺は、かったるい午後をどうすごそうかと悩んだんだ。
 この格好(ミカエル)じゃ、外へでてビリヤードや酒場ってわけにはいかないし。「ミカエル様」の「イメージ」を壊すと、あのひと、うるさいんだよな。本当にどうせ身代わりになるんだったら、金持ちの馬鹿息子とかのほうがずっと面白そうだ。それで美人のねえちゃんとイチャついて…、なんてこと。
 そんなこと、考えた。それで…外を見たら中庭でモニカ姫とユリアンが、侍女を何人か連れて、何か楽しそうにしていた。よく耳を済ましてみたら、内容は別に他愛もない会話だったので、命令を守って厳しく言いつける必要もないと思った。
 ミカエル様は何かと、モニカ姫に近づく男にうるさいからな…。あの二人が恋仲だったとしても、別に構わないと思うけど。
 部屋は中からカギを掛けておいて、屋根裏を通って何処かへ行こうとしたんだ。要は、いることになっていればいいんだ。あのひとのいない間に、カタリナさんを口説き伏せちゃおうかな、なんて冗談を考えて、やめた。だってあのひと、マジメっぽいじゃないか。
 ひととおり屋根裏を駆けずり回って、城内を一周したあと、中庭へ出たんだ。

 外はとにかく底抜けに晴れていて、俺は中庭へと足を進めた。モニカ姫とユリアンが侍女たちを連れて去った後で、まだ片付けきれていない道具や上着が草の上に敷かれていた。確かにミカエル様の言うとおり、ユリアンが来てからは少々、品が良くなくなったかも知れない。
 でも、あの姫のあの笑顔は、俺とあんたとじゃ無理なんだよ、ミカエル様。
 
 不意に後ろを向いた。驚いた。俺が立っていた。すぐに鏡だとわかった。モニカ姫ったら、こんなものまで持ち出しちゃって…。
 でもその鏡の中の俺が、何だか他人のような気になって、しばらく動けなかった。自分が先に動いているのか、そいつが先に動いているのか、わからなくなってきて…口をついて出た。
「ミカエル様?」
 そいつ、鏡のなかで何かを言おうとしてる。
 空は気が狂ったように何もなくて、真黄色の太陽が溶けだすと、光と熱が髪の上へと流れ込んだ。太陽に撫でつけられて、その反射さえ眩しい金色。その間から青い眼で鏡の中を覗いているのは、どっちなんだろう…

 気がついたら、この場所に立っていた。
 どこまでも続いていそうな、糸杉の細い道。
 その道の片側から、黒い服を着た人達が大勢、柩を引いてやってくる。道の端へ避けた俺には、誰も気づかないで過ぎていく。長い列。柩の傍を歩いていた少年がひとりだけ、こっちを向いた。目が合う。鏡の中で見たのと同じ、見る者の動きを封じる青の眼。金の髪に、黒い礼服をまとって、こっちを見た。
 そして、列を外れてひとり、俺のほうへきた。
「何てひとが亡くなったの?」
 俺が尋ねると、そいつはこう言った。
「わたしの母という人だ」
 表情は、ない。
 列が終わりに近づくと、その一番後ろを二人でついていった。あの柩のなかで眠る人の、死を悲しむ人は多いようで、大勢の人が参列をし、列は長くて、沢山の泣き声も響いていた。
「おまえさぁ、母さんをなくしたんだろ?」
 俺は呟くように話しかけていた。
「何でそんな平気なの」
 少年は前だけ見つめている。そして、こう言った。
「昨日までは傍にいた」
 俺は横目で子供の顔をみようとした。泣く様子など、微塵もない。でもこの葬式の意味はわかっているようだから、妙な感じだ。
「俺が両親を亡くしたときにはもっと…」
 どうにもこのガキが心配になった。泣いているほうがまだ大丈夫そうだ。
「一日逢えなかったくらいで泣いたりはしない」
 強がりなのか、それとも…?
 俺はため息と同時に、そいつへ言った。
「泣いちゃいなさいって。ほら、みんな泣いてるだろ? いま悲しんでおいたほうが、あとでぜったい楽だって!」
 でも、このガキの表情はいっこうに崩れない。うつむく事すらしない。確かにどこかしら悲しそうな顔をしてはいるものの、何かが違っている感覚だ。
「まだたった一日、逢わなかっただけだ」
 列の最後尾で、前の人を眺める。大人だって泣いている。最前列は墓地の奥へと入っていった。
 この空と同じ、何かの底が抜けているような感覚がした。
「明日は二日間、明後日は三日間…逢わなかった。そんなんじゃ、悲しくなる一方じゃんか」
 俺は困惑した。それで、もう一度言ってみた。
「今がいちばん悲しいんだよ」
 すると、相手が。
「お前は器用だな」
 どこかで聞いたような台詞に思えた。
 墓地の入り口の前で、少年は立ち止まった。高い高い石の門がそびえていて、死への入り口みたいだ。やけに、回りの物が高く見える。
 少年はまっすぐこっちを向いていた。俺と向かい合っていた。目線が同じになって、相手の顔がとてもよく見える。憂いを込めた青い瞳と、光をはじいて黄金色に輝く髪、世界の果てに似たような、漆黒の服。
 そうして、言葉をつづった。
「あのひとが、ここにいるとは思わない。あのひとは…」
 無表情じゃない。感情が読めないだけだった。
「あのひとは遠くへ行ったのだと聞いた。
 わたしが一生かかってたどり着く、遙か彼方へ行ったのだと聞いた」
 『あぁ、こいつ』 心の中で、俺は叫ばずにはいられなかった。『人の死を見たことがないんだ』。初めて見た人の死が、こいつの母親のあの列なんだ…。
 そうして、俺たちは黙った。
 相手は、墓地から背を向けた。
「あ、どこへ?」
 振り返る。気づけば背丈もいつの間にか同じで、着ている服もそっくりになっている。
「いつものように後を頼む」
 聞いたような台詞だ。
 俺は不安になって、もう一度言ってみた。
「どこへ行くんです?」
 言い捨てるような台詞で、小さく口が動くのが見えた。そのまま背を向けて、走るように道の奥へと消えていった。「遠乗りに」と、口が動いたのだけはわかった。
 糸杉の小道はこの門の前から、まっすぐ、どこまでも続くようで、背丈の下がったこのカラダを左右から見下している。空は気違いのように底を失って、淡い色彩を欠いた、真黄色の太陽がこの金の髪を直に撫でつけて、熱を帯びたように目眩う頭を押さえると、目を閉じた。

 どれくらい時間がたっただろう。眼を開ける。
 そこは見慣れたロアーヌ城の中庭で、穏やかな風が花の間をめぐってやってくる。鏡の中の青年は、青い眼をじっとこちらに向けていて、風に金の髪をなびかせて立っている。
 ふいに蝶が肩にとまっていたのに気がついた。
 夢見るような黄色を少し、憂いを帯びた青をひとかけら、そして、世界の果てのようにひたすらに深い黒…。
「アゲハか…」
 黒揚羽は、死を司る蝶だって、聞いたことがあった。黒い色は、喪服の黒なんだそうだ。
 二、三度、羽をはためかせて、飛んだ。
「お前、遠乗りにいくのかい?」
 空が、高い。
 『あのひとが、ここにいるとは思わない。あのひとは、遠くへ行ったと聞いた』
「遠乗りかぁ…」
 風みたいに、どこか遠くへ。
『わたしが一生かかってたどり着く、遙か彼方へ行ったと聞いた』
 鏡の中のもう一人の見慣れた相手は、相変わらず無口で、姿形こそ同じでも、何を考えているのかわからない。
「あのひとの放浪癖も、仕方ないのかな…」
 そう呟いて、あとは何も言えなくなった。



[ No,195 ランカーク様 ]