雪の幻



「――…え?」
 レオニード城、ポドールイの町を見渡すことのできるバルコニーから、モニカは一瞬目を疑った。
「サラ様…? トーマス様に、エレン様もいたような……?」
 雪はやっとやんだ。重い空を見上げるために、モニカはバルコニーへ出たのだ。
 カタリナを想うため。
 兄・ミカエルを想うため。
 ここにいると伝えたいが、伝えることのできないことを辛く思うために。
 すると、粉雪でけぶる視界に見たことのある姿が写った。遠い景色のこと。幻かもしれなかった。しかし、幻で、共にポドールイの洞窟まで行ったシノンの四人――ユリアン、トーマス、エレン、サラのうち、三人の姿を見たのに、それが幻だといえるだろうか。
 もしもモニカが夢幻を見るのであれば、兄やカタリナを見るはず。もしくはツヴァイク公子の元へ嫁ぐ途中、離れてしまったユリアンの――。
「気のせい…ですわね」
 呟くと、不意に肩が震えた。
「…モニカ姫、外は冷える。中へ入られるがよかろう」
「……レオニード様…」
 モニカはゆっくりと振り返って、低い声の主を見つめた。それはこの城の主、吸血鬼伯爵レオニードだ。
 血を吸われ、吸血鬼となった女たちをメイドとして連れて、食事を持ってきてくれたようである。
「そなたは生きた人間。食事を摂らなければ、体力も快復せぬであろう」
「…レオニード伯、ありがとうございます」
 外気の冷える外から、暖炉もあって暖かい部屋へ入る。血の気がない肌の女は、目に何も写していない。ただレオニードに従って、食事を載せたトレイを持っているのである。
 これが間違っているとも言わない。
 正しいとも思えなかった。
「モニカ姫。いつ、立たれるのだ?」
「そうですね…」
 呟いてから、モニカは外を見つめる。雲が重たそうに、空に敷き詰められている。
「いつ頃、晴れるのかしら……」
「わからぬ。晴れたら立つのか?」
「はい…、長くいても、レオニード様にご迷惑をかけるだけですもの」
「そうおっしゃるものではない、モニカ姫。わたしはヒルダがいると思い、なんでもしようという気になっているのだから」
 くっくっと、彼は喉の奥で笑った。
 ヒルダ、というのは、モニカの先祖であるらしい。はじめてこの城に来た日、ヒルダという名を伯の口から聞いたが、これで二度目になる。とても美しい女性であったそうだ。
「ところで、レオニード様。ここから、どう出ればピドナに行けますか?」
「ピドナへは、ミュルスかツヴァイクを経由しないと行けぬ。ロアーヌへは帰れぬのであろう、モニカ姫」
「……」
 モニカはうつむいた。
 確かに帰れないのだ、ロアーヌには。兄には、ツヴァイク公子と結婚するといって生まれ育った場所を出た。ミュルスから、船でツヴァイクに向かったものの、中途で嵐に出会いモニカだけファルスに流れ着いてしまった。
 なんとか縁を頼るように、ここポドールイのレオニード伯の元に来てしまったのである。彼は難なく迎えいれてくれたのだが。

「ツヴァイクまで行くも、そなたは地図を持っておるのか」
「いえ」
「モニカ姫。幸い、この城に一枚、世界の地図がある。それは持っていくがよかろう」
「え!」
 弾かれたように顔を上げた。伯は不敵な笑い方を見せている。モニカが借りている部屋のチェストの、一番上を開けた。
 少し古い地図が現れる。
「これは、八十年ほどまえの地図。ツヴァイクやピドナは、それほど変わっておらぬだろう」
「……レオニード様…」
 吸血鬼伯爵は、兄と深い親交がある。それでも、このように親切にしてくれるのが、モニカには嬉しかった。
 ファルスで、褒美金目当てにモニカを隠して、褒美を弾んでもらおうとした夫婦のことが頭に浮かんだ。
 あの人たちを悪いとは思えない。それでもレオニードのこの親切には、やはり涙が出るほど嬉しかった。ロアーヌ王宮を離れて、二度目の感動だった。一度目は他ならぬ、シノンの四人と行動を共にしたことであるが。

   *

 二日後。
 モニカは動きやすい服と、少しのクラウンをもらって、ポドールイを出た。
 町の宿屋を見かけてみたが、やはりサラやエレン、トーマスはいなかった。あれはやはり幻だったか、それとも、真実だとすれば彼女らはもう町を出たのだ。
(何を期待していたのかしら、私は)
 もしかしたら連れて行ってくれるかもしれないと、甘えた期待をしていた。
 モニカは武器屋で、軽い小剣を買って、町を後にした。そしてレオニードからもらった古地図を手に、ツヴァイクへの道を辿る。

 奇しくもその道は、前日サラたちが通った道と同じものであったことを知らず。

おわり




[ No,171 弓月綺様 ]