Suddenly・・・


 酒場の喧騒が妙に遠い。
「お客さん。もう少し詰めてくれますか」
 店主に言われ、何も返さず刀を持って一つ左の席へ移った。カウンター席の隅に追いやられた。
 隣りに座ってきたのは、恋人同士のように思う。
「……まったく、最近の子供が、夜おそくまで何やってんだか……」
 店主が聞こえよがしに囁くのは、きっと自分に向けられているのだろう。だったら、ここに入ったそのときに追い出せばいいのに…と考える。わざわざノンアルコールのジュースを出すことはないだろう。
 すぐ隣りに座っているのに、恋人たちの笑い声が遠かった。ふと視線をやる。楽しそうに笑い合う姿が、とても眩しかった。あの中に、入りたくても入れないのだ。
 閉店になったらどうしようかと、なんとなく心の内で呟いた。ここは港町、ミュルス。夜にでも船が出ていれば、ピドナもしくはツヴァイクへ行くことも出来る。
 何故か手にしていた大金も、そろそろ底を尽きはじめた。魔物退治でもして、稼ぐしかないだろう。
 そうやって越えたのか分からない。東と西を分ける《死の砂漠》を越えてやってきた。何が己をそんな無茶に駈り立てたのかさえ不明。
 ただ一つ、はっきりしていることは。己がいれば周囲が傷つくこと。だから西の国に来ても、人との交流は避けている。皆が傷つくから。それを見ているだけは嫌だから。


 ふとすると、酒場は閑散とした様子を取り戻していた。隣りに座っていたカップルも、肩を並べて店を出るところだ。迷惑顔の店主が、店に残っている己と、――いつの間にいたのか一人の少女を――見比べている。
「ったく……、何やってんだ。子供は早く家に帰れ」
 ぶつぶつと呟く男の声に、耳を塞ぎたくなった。

「ねぇ」
 カウンターではなく、一人掛けのテーブルに向かっていた少女が話しかけてきた。人なつっこいような笑顔だが、少し不器用そうにも見える。ゆるいウェーブのかかった髪を首の後ろでまとめている。
「僕に、かまわないで」
 突っぱねた。こう言えば、離れていく。西の国に来て学んだことだ。
「何が怖いの?」
 少女は、怖気づいた様子も憤った様子もない。離れていようなんて様子は、全くないようだ。
「……皆、死ぬんだ…。僕の周りにいた人、みんな! だからかまわないで」
「そんなこと言わないで」
 少女の手が、凍ったように固くなる身体にそっと触れた。思わず振り向くと、彼女は深い笑みを浮かべて、
「私は死なない。だから一緒に行こうよ」
「……」
 震える眼差しで少女を凝視する。その笑みには揺るぎがない。
「私もね、つい最近、一人になったのよ。――といっても、帰ろうっていうお姉ちゃんから離れてしまっただけなんだけどね」
 えへっと、少女はぺろと舌を出して見せる。まるで悪戯が見つかったときの子供がするポーズだ。
「だったら、その人のもとに帰ればいいよ。僕は……行きたくない。人と関わりたくないんだ」
 少女の笑みが眩しくて、顔をそむける。
「まだそんなことを言ってるの? ――私は死なないって言ったじゃない。信じて」
「……」
 再び少女を見つめた。
「…いい、の?」
「いいよ」
「僕がいても……」
「いいよ。一緒にいようよ。ね?」
 目頭が熱くなり、視界が歪んだ。頬に流れるものが皮膚にしみる。
「行く…、行くよ……」
 涙の中で、それだけを口にした。
「決まりね。私はサラ。――――サラ=カーソンよ」
「僕は、……」
 言いかけて、疑念が浮かぶ。自分の名前はなんだろうか、と。
「何?」
 サラの笑顔が間近に写った。
 ――分からない。自分の名前が、わからない。名前がわからないのに、ずっとこの広い世界をさまよっていたのだろうか。人が話しかけてきても、そっけなく突っぱねていたから、名前をいうには及ばなかった。だから、今、自分の名前が頭に浮かんでこない。
「わから…ない…。僕の名前は……」
「……」
 サラの笑顔が一瞬歪んだ気がした。けれど、
「クリス、よ」
「え?」
「あなたの名前は、クリスっていうの」
「サ、サラ?」
 まるで彼の名前を知っていたかのように言うサラを見上げた。彼女は背を向けて歩き出す。入り口の前で立ち止まり、
「早く行こうよ、もう閉店だって。――――――ねぇ、クリス」
 満面の笑みを見せて、呼びかけた。
「……あっ、うん」
 少年――クリスは、刀を手に立ち上がって、サラの背を追った。

《運命》の歯車は、しだいに音を立てて廻りはじめる――――。

おわり



あとがき

少年×サラを読んでもらいたくて、サイトに載せていたものを投稿しました。
少年を書く場合、名前の呼ばせ方が悩みの種で、オリジ設定でクリスと呼ばせています。
サラちゃん命名ですが(笑)。それにしても一人になると強気です。
――弓月綺――



[ No,171 弓月綺様 ]