一筋の光明も差さぬ、暗き淵

そこに身を横たえていた私を

強引に立ち上がらせたのは、不遜な男だった

不敵な笑みを唇に浮かべ

アビスの闇よりも暗い漆黒の瞳

闇に溶け込むような濃い藤色の髪をなびかせた男が



…… こい、と ……



その唇を動かした

私の龍の攻撃を気にも止めず

私が仕掛けた攻撃にも

傷一つ負う事なく

男は、暗く笑み続けていた


力尽き、膝をついた私の手を掴み

温もりを宿す、脆弱なる人間が

私を打ち負かした後に

漆黒のその瞳を、笑みに細めて



…… こい、と ……



再び、その唇を動かした


人間には過ぎる魔力を有する男


…… お前は、一体何者なのか? ……


誰何の声を投げた私に

男が、フッと漆黒の瞳を伏せる



…… 俺か? ……



言って、その瞳を完全に閉じて



…… 俺は、人間の敵対者。何よりも“死”を望む者 ……



不吉な笑みを浮かべる男に

思わず身を引いた私を、男が強引に引き寄せる


…… 名は? ……


見下ろすように漆黒の瞳に覗き込まれ

屈辱に震えながら、その闇を見上げた



… 私に名乗らせたいなら、お前が先に名乗るが良い …



私の声に、小首を傾げて

男が、その瞳に影を落す

男の漆黒の闇が、更に滑りをおび

惹きこまれる様な暗き輝きを宿す



…… 名か ……

……俺には、もうそんな物はない ……

…… お前が好きに呼べば良い ……



そう呟いて、男が再び私に問う



…… 名は? ……



その声に、するりと言葉が滑り出す


…… 私は、ビューネイ ……


…… ビューネイ、か。美しい響きだな ……



そう呟いて、私を見詰めた男

名前のない、その男が

力の入らぬ私の身体を軽々と抱き上げる

抵抗しようとした私の唇を塞ぎ

男が、その温もりを宿す指を

私の頬に這わせた



…… こい、と ……



再び同じ言葉を呟いて

男は、私を支配した





…… それは ……

百年にも満たない、短い時間だったけれど





知りたいのは、この涙の理由




 タフターン山の霧の奥に、己の巣を築いた。

 暗く、滑りを帯びた闇。

 ……あの時、あの男が私を捕まえた場所と似た空間。

 アビスの闇に似た暗き淵に身を横たえ、澄んだ水にその面を映す。

 煌めくように肩を滑り落ちる黄金の髪に、紫水晶のように輝く瞳。真紅の衣装をまとった女が、物憂げに水面に映った自身の姿を見つめる。

 アビスより宿命の子の手により導かれ、人の世に混乱と恐怖を撒き散らしながら。……数百年前から変わることがない、己の顔を見詰める。

 翼をもつ者の王として、空を支配して自由に飛翔する私。大気を切り裂くように進む感覚は、何物にも変え難く私を魅了する。

 扉を潜りぬけ、初めてアビスより抜け出して。

 私は、あの男の通り名を知った。

 ……人の世で、あの男は“魔王”と呼ばれていた。

 男が扉を開く二十年ほど前に世界を覆った、死食。

 男は、すべての生命が断ち切られていく中、たった一人生き残った“宿命の子”だった。

 ……その意味する事も解らず。

 成長した男の中で、ある日何かが弾けたのだと言う。

 皮肉気に微笑みながら、昔は真面目な人間だったと語った男。

 ……ある日、“死”に魅了されたのだ、と。

 すべての生命を屠りたいと言う欲望を感じたのだと、可笑しそうに話していた。

 すべの生命が消え失せるその瞬間を思うと、俺は無上の喜びを感じるのだ、と。

 邪悪さの欠片もない、ともすれば神聖な者を宿しているような清廉な姿をしながら、男の欲望は果てしなく邪悪さをまとっていた。

 人間達は魔王を見ると恐れながら、しかし逃げる事が出来ないようだった。

 ……その、姿に。

 これは、何かの間違いであると信じたがっているように。

 真紅の鮮血を飛び散らせて、その儚い命を断たれる瞬間まで。

 ……信じられぬと、その瞳を見開いていた。

 そんな人間達を、冷たく見下ろしながら。

 朱に塗れて、冷たくその死を見つめていた男。

 かと思うと、美しいからと言う理由で、蝶を見て驚くほど優しげに微笑むような男。

 魔王殿に君臨し、闇に生きる者達を支配しながら、何処か遠くを見詰めて、私の視線に気付くとかすかに笑んでいた。

 私は魔王の四魔貴族と呼ばれ、魔龍候と恐れられながら、ほかの四魔貴族とともに魔王に打ち負かされてその支配下に下ったのだけれど。

 ……ただ一人、我ら以外に男と親しげに話す者がいた。

 脆弱な人間から、闇の母の力を受けて不滅の肉体を得た者。

 緋色の髪と暗赤色の瞳を持つ男は、闇の母の死の腕に抱かれた忌まわしき者。

 私を見て、薄く笑むその瞳が気にさわるものであったが。

 引き裂く事はしなかった。

 ……私にとっては、造作もない事だったけれど。それを、彼は望みはしないだろうから。



 魔王の支配を許し、数十年の時を経て。

 ……ある日、突然。

 アビスに現れた時と同様に、忽然と魔王はその姿を消した。


 世界中の空をかけ、私は何故その姿を捜し求めたのか?

 あの、気に障る笑みを浮かべる男。

 あやつの城を訪れ、その行方を尋ねさえした。

 ……しかし、その姿は何処にも見出す事が出来ず。



 ……そのまま、数百年の時だけが流れた。





 パシャリッ。

 水面に映った自身の姿を指でかき混ぜ、ビューネイが小さな波紋を広げる水面を見詰める。

「………こい、と。」

 揺れるそれを見詰めながら、ビューネイが小さくその唇を動かす。

 初めて出会った時に、あの男が口にした言葉。

 最後まで、真実の名を教えてはくれなかった男。

 しなやかな身体を持ち、冷酷な笑みのとてもよく似合う男。

 ……しかし、優しげに微笑を浮かべる時、その邪悪さは腐食され、まるで殉教者のように悲壮なまでの神聖な気配をまとわせる、あの男。

 何も告げずに、姿を消した、あの男。

 数百年の時を経て、どうして私はあの男の姿を、その声を。

 ……こんなに鮮明に思い出すのか?

 闇に沈みこむように、ビューネイが魔王の姿を思い浮かべる。

 白く長い四肢。濃い藤色の髪。長いまつ毛。そして、アビスの闇よりも暗い、濡れたような漆黒のその瞳。

 左手に光剣を持ち、その右手には緑のマスクを持っている。嵌め込まれた三つの紅玉が、目のように光を受けて輝いている。

 その口元には、不敵な笑み。しかし、その周囲には慕うように纏わり付く、儚い蝶の乱舞。

 青白い悪鬼の様であり、優しげな者の様であり……。

 掴み所のない、宿命の子。



 物憂く自身の脳裏に創り上げた魔王の姿を見つめて、ビューネイが気まぐれにその力を振るう。

 瞬間、紅い闇の中に浮かび上がる姿。

 自分の脳裏に残る男の姿を、実体化させる力。闇の中にあって、浮かび上がるように濡れた漆黒のその瞳まで、それは本物と寸分違わぬ出来であった。

 揺らめくように淡い燐光を放ちながら舞う蝶の中から、記憶の中にしかいない男が自分を見て、かすかに微笑を浮かべた。

 それを見詰めて。

 ビューネイが、その美しい眉宇を寄せる。

 ……私は、何をしているのだろう?

 そう思いながらも、しかしそれから目を離すことはなく、ビューネイがスッとその紫紺の輝きを放つ瞳を半眼に閉じる。

 ……アレから、何百年がっ経ったのか?

 物憂く半身を起こしたビューネイが、乱れた髪をさらりと後ろへ流す。

 そして半眼に閉じていた瞳をフッと開くと、その紅い唇を不機嫌に開いた。

「……隠れていないで、出て来たらどう?」

 その声に導かれるように、静かな水面が波立ち、水流をその身にまとった青年がそこから姿を現す。

「……見事な出来だな?」

「そんな事を言いに、わざわざ来た訳ではないでしょう?」

 煌めく碧の光彩を放つ青年に、不機嫌な視線を向けて。態度で、用件は何かと問い掛ける。

 魔王が消息を断った後、好き好きに人の世に災厄をもたらしていたが、こうしてまみえるのは数十年の時を隔てての事であった。

 つれない態度のビューネイから魔王の姿に視線を移して、碧の瞳を細めて青年が口を開く。

「……別に、用って事はないけど、な。ただ、懐かしい気配がしたから来てみただけだ。」

 感心したように魔王の姿を見つめながら、すいっと青年が自身を取り巻く水流を消し去る。

「……フォルネウス、暇なの?」

 呆れたように呟いたビューネイに、フォルネウスが右手に持った三叉の矛に体重をかけながら小首を傾げる。

「……そんな事はないけど。それにしても、懐かしいな。……奴の行方は、結局の所掴めなかったんだろ?」

「………………。」

 無言で自分を見詰める紫紺の瞳に苦笑して、フォルネウスが肩をすくめる。

「あぁ、怒るなよ?……久しぶりに、どうしてるのかなと思ってね。」

 そう言いながら、それにしてもと青年が笑う。

「ビューネイの知っている魔王は、随分優しそうな顔をしてるな。」

 その言葉に視線を上げたビューネイに、フォルネウスがスイっと左手を宙で滑らす。

 そこから溢れた水流が一つに集まり、青白い肌の男を形作る。

 ビューネイの作り出した幻影とまったく同じ姿の、魔王の姿。

 ……しかし、浮かべる表情があまりにも違う。

 その顔に浮かんでいるのは、氷の微笑。

 薄ら寒さを覚えるほどの、不吉な微笑み。

「……僕の知る魔王は、硬く冷たく。……あいつが魅了されたと言う“死”そのもののようなイメージなのにな。」

 そう呟いて、フォルネウスが三叉の矛を地面にトンッと打ち鳴らす。

 すると、水流で作られた魔王が、その冷たい瞳をこちらに向けて、見下ろすようにしながらその唇を開いた。

“……俺に従え”

 そう言って冷たく微笑んでいる男の幻影に、フォルネウスが苦笑しながら口を開く。

「初めて会った時、開口一番がこれだからな。……当然戦闘になったが、我らアビスの強者の力を弾き返す化け物だったんだから、人間も見た目じゃないな。」

 クスクス笑う知己を見ながら、ビューネイが瞳を閉じる。


 ……魔王が消えた後、探したのは私だけだったけど。

 このフォルネウスは、魔王とはかなり気が合っていたようだった。

 初めの反発も強ければ、その後の結束は固いもの。

 お互い口には出さぬが、魔王の一番傍にいた者。

 ……魔王が、信頼していた者。


 あの男が姿を消した時、私に探すのは止めろと。

 そんな事をしても、きっと無駄だと。

 その言葉を繰り返していた。

 ……今はもう、遠い昔の事だけど。


「……あいつ、ビューネイには何て言ったんだ?」

 長い碧の髪を揺らせて問い掛けるフォルネウスに、ビューネイがさらりと力を放つ。

 すると、ビューネイの作り出した幻影がこちらを向き、その面に不敵な笑みを浮かべて左手を差し出す。

“………こい”

 短い一言を呟く魔王にフッと笑って、フォルネウスを見たビューネイが、その眉をひそめる。

「………フォルネウス?」

 碧の瞳を軽い驚きに見開いていた相手は、はっとその表情を戻す。

 そして……。

 クスリと、静かに微笑んだ。

「………どうしたの?」

 小首を傾げるビューネイを見詰めるフォルネウスの身体を、宙から滑り出した水流が覆い始める。

「……そろそろ、帰るとしようかな。」

 そう呟きながら、透ける水を通してフォルネウスがビューネイを見詰める。

「………何なの?」

 小首を傾げて自分を見詰めるビューネイにフッと笑い、水流で出来た魔王を消し去る。

「“………こい”、か。」

 ポツリと呟いて、輝く碧の瞳をスッと細めながら水流を支配する青年が歌うように呟く。

「……人の言葉は、おもしろい。“こい”は、“来い”に通じ、そして“来い”は“乞い”に通じるそうだ。」

 困惑も露わに自分を見詰める紫紺の瞳に笑んで、フォルネウスが自身を包む水流を更に激しくする。

「“乞い”……相手に自らの元へ“来い”と、“乞い願う”。」

 激しい水流が、遂には完全にその姿を隠してしまう。

「“乞い”と願うのは、相手に“恋”をするようなものなのだそうだ。」

 逆巻く水流が宙に滑り込むように消えた後、フォルネウスの声だけが残る。

「……あいつが消える直前に、僕に教えてくれたんだ。……“こい”と言う言葉には、言霊があるんだと。相手を巻き込む、力があるから気をつけろ、とね。」



 静かに告げるその声に呆然として、ビューネイが紫紺の瞳を見開く。

「…………そんな。」

 呟いて視線を向けた先にあるのは、自分が作り出した魔王の幻影。

 幻影の不敵な笑みの形を作ったその唇が、不意に開かれる。

“…………こい”

 呟かれたその言葉に、ビューネイが眉を寄せる。

「“こい”は、………“恋”?」

 まさか……。

 そう呟いて、よろりとその場に膝をつく。

 フォルネウスの告げた言葉に、混乱する自分を感じながらビューネイが不安げにその紫紺の瞳を宙に彷徨わす。

 ……すると。

 ふわりと、温かな手が自分の腕を掴む。

 ビクリとして視線を上げると、そこには濡れたような漆黒の瞳を笑みに細める魔王の姿。

「………なぜ?」

 驚きに固まったままのビューネイに向かって、魔王がその唇を開く。

“…………こい”

 ささやかれた言葉に、一瞬アビスで交わされた遠い情景が脳裏に浮かぶ。

“…………名は?”

 伏せられた長いまつ毛を見詰めながら、掴まれた腕がかすかに震えるのをどうにも出来ずにビューネイがその紅い唇を開く。

「わ、私は……。」

 声を放った瞬間、腕に触れていた温もりが消える。

 自分を見詰める濡れたような漆黒の瞳がその輝きを失う。

 瞳を見開くビューネイの前で、魔王の姿が霧散する。

 ……ビューネイの力によって作られた幻影が、その姿をただの力に還元される。



 呆然と、魔王の消えた空間を見詰めて。

 金髪の美女が、掴まれた温もりの残るそこをもう一方の腕で握り締める。

 ……今のは、一体。

 そう心の中で呟きながら、ビューネイが自身の頬を流れ落ちるものを感じる。

 自らの意思には関係なく、後から後から流れ落ちるのは、涙。

 無意識に自分の頬に細い指を這わして、その指先で冷たい雫を感じる。

 ……あの男も、こうして私の頬に触れた。

 懐かしく思い出されるのは、事あるごとに自身に放たれた“こい”の言葉と、頬に触れた指先。



 ……そこに、名前も明かさなかったあの男は、本当はどんな思いを込めていたのだろう?


 止めどなく溢れる涙をそのままに、ビューネイがその瞳を閉じる。


 ……私は、何を泣いているのだろう?

 ……私は、何が哀しいのだろうか?



 ……流れ落ちる、この涙。



 ……そこに、何か意味があるのだろうか?


 ……私に解っているのは、この胸に眠る思いだけ。


 ……どんな感情に起因するのか、解らないけれど。


 ……私は、あの男にもう一度会いたいと思っている。





……そうすれば、この涙の理由もわかるかも知れないから……







 ビュー姐さんと魔王……私のロマサガ3に対する、愛と妄想の結晶です(笑
 ……仲間ができれば良いなぁと思って、こちらに上げさせてもらいました。
 これを書いたのは去年だと思います(汗

 後、魔王が斧ではなく剣を持っていて濃い藤色の髪なのは、すべて私の趣味です(ははは
 絵でもマイナーでしたが、SSでもマイナー(苦笑)……己の煩悩のままに生きておりますv

[ No,70 ことこ様 ]