The Last Spot 〜ラストスポット〜

 問わないとは言ったものの、あのひとは気にしているようだった。あのひとの頭の
なかのカタリナという人物がどんなだかなんて、俺は知らないけど。きっと、強い人
だと思っていたんだろう。だから意外だったんだ、多分。理由も言えないような方法
でマスカレイドを奪われただなんて。
「ピドナでは聖王の槍が何者かに盗まれたらしい」
 短い言葉で事実だけを口から出して、このひとは旅の荷物をクローゼットへ投げ入
れた。
「何者かが聖王の遺物を集めている可能性があるな」
 独り言のような口調だったが、念のため尋ね返す。
「調べましょうか?」
 ミカエル様は首を横にふった。
「お前には別の仕事もある。マスカレイドのことはあれに任せておけ。
 それに聖王の槍は、ロアーヌには直接には関係のないことだ」
 そうして、優しくはない口調で俺へ続けた。
「しばらくは国にとどまる予定だ。お前は勝手に休んでおけ」
 そう言ったきり、ミカエル様は本来やるべき自分の仕事を始めたわけだ。
 今夜は新月とまではいかなくても、二日目の軽薄な月の光はほんとうに弱くて、辺
りも比較的暗く、俺にとっては歩きやすい環境だった。
 宵の風は木の葉を揺らして、かすかに音を立てさせる。それでも湖の近くは本当に
静かで、まるでこの世界で息をしているのはお前ひとりだけだと言われたみたいだ。
 青い布地のブーツをつかんでずりあげた。長さの足りない、靴ヒモを少し無理して
結び上げる。白い砂利や小枝を踏んでひとりで歩くと、寂しかった。かつての皇妃ヒ
ルダ様が愛したといわれるこの湖は、いまでも不思議な魅力をたたえて美しい。
 小さな湖の向かい側には街の灯が明るくて、多分まだ人通りも騒がしいのだろう。
だけれどこの辺りは風しか来なくて、だから余計に独りぼっちになった気分になる。
 『俺のあのひと』は、いまどうしているだろう。自分自身に気まずくなった。寂し
くなると、すぐにこうだ。
 俺は顔を隠していたスカーフを取って、水面を見つめた。飾り帽子も自分の足元に
置いた。体を低くして、よく水面を見つめた。
 顔を見ようと思ったんだ。
 今日という日は、空には本当に雲ひとつなくて、今は夜なものだから、水面には星
がはっきりと映った。そんな身じろぎもしない、湖面に散らばった硝子細工を背景に
闇が広がる。二日目の月は研ぎすぎた刃のように鋭く残忍で、わずかしかない光を全
部俺の髪へと注ぐから、まるでミカエル様と見分けがつかない。
 自分の顔を見ると、妙な気分になる。俺がミカエル様ではない、という証拠が俺の
顔にはないからだ。
 顔をあげて、ただ突っ立って、ただただ向かいの街の灯を眺めてみる。あの光の中
のひとつはきっと、昔出会った人のものなんだろう。その光を見つけることができる
なら、ここに立っているこの人物が確かに俺だって思えるのに。
 あのひとが、たとえ他人の仮面の下の俺に気づくことがなかったとしても、その時
俺は確かにそこにいた。『俺のあのひと』はどこですか…。まただ。ひとりになると、
すぐにこうだ。
 その時だった。後ろのほうから木の小枝が折れる足音が聞こえた。俺は慌てて木の
木陰に身を潜めた。帽子もスカーフもしっかりまとった。でも遅かった。人影は躍り
出てきて、俺へ向かって剣を構えた。
「お前を探していた! 出てこい!」
 いったい何処の手の者だろう。俺は腰から下げていた小剣に手を掛けて息を整えた。
ここでミカエル様との関係を暴かれては、事が大きくなりかねない。まぁ、俺がここ
で殺されたとしても、ミカエル様は「知らない」と言い張れば済むだろうけど。
 頭のいいあのひとのことだ。
「でてこい!」
 再び声がした。女の人の声だった。その声に俺は聞き覚えがあった。城の中では常
によく響く剣客の声。
「カタリナさん…」
 カタリナさんが相手なら、ロアーヌの皇帝のふりをしていたほうがいいかも知れな
い。カタリナさんがミカエル皇帝を裏切って暗殺するくらいなら、陛下は首を切られ
て死んだほうがいい。彼女ほど美しい忠誠を誓った剣客は、ロアーヌには他にいない
だろうからね。
 それに彼女は今、国外追放の処分を受けてロアーヌの城下へは入れない。この郊外
をうろつくのが精一杯の彼女では、城とこの場の両方で同時に皇帝ミカエルが出現し
ていても、それを確かめるすべがないのだから。
 ただし、不審な点がある。どうして剣を抜いて声を掛けているのか、だ。まるで誰
かを待ち伏せていたような行動だ。この俺を皇帝陛下と勘違いしているのなら、行動
があまりにおかしい。いったい何を勘違いしているのだろう。
 俺は帽子をいっそう深くかぶってスカーフを口元にあげると、この木の影からでる
決心をした。
「動くな!」
 相手の声が厳しく飛び掛かってくる。俺がまっすぐに相手を確認すると、何てこと
はない。やっぱりあのロアーヌのカタリナさんだった。むかしっからずっとモニカ姫
の侍女を務めている、あの大剣使い。マスカレイドという国宝を守護するという大役
を授かった、腕利きの剣客貴族。
 長い髪の美しいことで城下に知られたあの女剣士の、去り際に見せた無残に切られ
た短髪を俺は知らなかったんだ。俺はいつもカタリナさんの、長くパールがかったあ
の髪を印象づけていたから、内心この姿にショックだった。
 何て姿だ、カタリナさん。城ですれ違う時にはいつももっと綺麗で素敵なのに。
 マスカレイドを奪われたと報告に来た時の、あの玉座のミカエル皇帝は、俺じゃな
くて本人だったから。どんな捜索を続けてきたんだろう、服も靴も擦り切れて、くた
びれていて。髪の艶は言うまでもなくて、顔色だって白というよりは蒼白に近い。唇
も荒れていて。なんて哀しい姿なんだろう。
 そんなカタリナさんが、俺に刃を向けて厳しい表情をしている。
「帽子をとれっ!」
 俺は、なんていうか、このカタリナさんを哀しく思って、言われるままにしてあげ
ようと思った。いま、この場所で別れたあとは、彼女の代わりに探してあげようとま
で考えた。
 俺は帽子をひょいと取ると、足元に転がした。足元で、飾りが揺れた。そして、あ
のひととそっくりな金の髪が揺れて肩に掛かった。
「スカーフもだ!」
 カタリナさん、いったいどうしたんだろう。
 俺はゆっくりスカーフも同じようにとった。
 カタリナさんは一瞬唇を「ミカエル様」と動かしかけて、キッとつぐんだ。剣を持
つ手にこれ以上ないという程に力を入れて、俺の目を見ないようにしながらこう言っ
た。
「間違いない、お前だ、マスカレイドを何処へやった!?」
 俺は意味を飲み込めなかった。いったい、これはどいうことだろう。
 このひとは、どんな風にしてあの大切に守りつづけてきたマスカレイドを奪われて
しまったのだろう。
 俺は、顔を隠す道具を何も持てないまま、この色あせた姿のカタリナさんを見つめ
た。ミカエル皇帝はその理由を尋ねなかった。だからカタリナさんがどんな目にあっ
たのかなんて、俺には知る方法もないけれど。
 きっと強い人だと思っていたんだろう。だから意外だったんだ、多分。カタリナさ
んがこんな風になっているなんて。こんな様子で俺へ剣を向けているなんて。
「さあ、言えっ。お前が犯人だということはわかっているんだ」
 カタリナさんの、剣を握る手には凄く力が入って、震えていた。危険だ、感情が高
ぶりすぎだ。手が震えたためか、刃の切っ先にまで震えが伝わって、首筋に冷たく刃
が当たっては離れた。三度目で皮が薄く切れて、血が滲んだ。俺は動かなかった。
 動けなかったんじゃない。こんな状態のカタリナさんなんて、すぐに押し退けて逃
げる事だって出来た。去り際に、地面に落ちている帽子とスカーフを拾っていく自信
すらあったのに。
 動けなかった。
 言葉にすらつまって俺は、ただただこの綺麗なロアーヌの花を見つめていた。風が
吹いて、ピンクの淡く短い髪が静かに揺れた。
 カタリナさんの唇が震えて、いままで外していた目線がピタリとあった。おれの目
はこのひとにどう映ったろう、なのにカタリナさんはがっくりと肩を落としてうなだ
れた。
「やめろ、やめてくれ、できるわけがない」
 そう呻いて、剣を手から放した。
 俺はほっとしなかった。なぜかって、カタリナさんはこの俺を人違いだと確認した
わけではなさそうなのに、こともあろうか戦意喪失してしまったのだから。これが、
あの、カタリナさんだっていうのだから。
「さぁ、見ただろう。いつまでそうやってあの御方の真似をしているんだ、
 わたしはお前を殺すために追って来たのに…」
 おおよその予想がついて、俺は下に落ちたままのスカーフと帽子をゆっくりと拾っ
た。俺自身があのミカエル様と別人であるとはいえ、あのひととあまりに似すぎてい
るこの姿をカタリナさんの前で見せつけるのは罪に思われた。それにしても、ひどい
方法で騙されたものだ。
 俺は、前より一層深く帽子をかぶって、顔を隠した。
 そして、なるべく落ちついた声でカタリナさんへ言った。
「俺は、あんたの探している相手じゃないよ」
地面へ落ちた剣をカタリナさんの手へ持たせた。
「ほら、刃をしまって、シャンと胸を張るんだ。
 あんたは俺の知るかぎり、ロアーヌで一番の剣客なんだから」
 カタリナさんは目をつむって、深く深呼吸をすると俺の言うとおりにした。強くて
綺麗なカタリナさんがそこに伺えた。
「しかし、素直にあなたを人違いと決めるつけるわけにはいかないの」
 カタリナさんは剣をしまったまま、やや紳士的にこう言った。
「こう言っては、妙に思うかも知れないけど。アビスの魔物が人間になりすまして、
 わたしの持ち物を奪ったのです」
 俺は念のため、ひとことだけ尋ねた。
「それで、俺をそいつと間違えたと…」
 カタリナさんはうなずいた。それで、俺は確信した。俺と見間違うなんて、相手は
ただひとり、ミカエル様に化けたのだろう。
 そうか、カタリナさんはまだずっとあのひとを…。
「頼みがある、何の理由があって顔を隠しているのか知らないが、
 もう一度しっかり素顔をみせてくれないだろうか」
 俺はこの言葉には戸惑った。予想がつかなかったわけじゃない。いい返答が思いつ
かなかったからだ。「いいえ」といえば疑われそうで、「はい」と見せても疑われそ
うだ。だって俺の顔は間近で見たとしても、あのひととは差なんてないのだから。
「顔を見させてもらいたい」
 カタリナさんは強くはっきりと、言葉を繰り返した。俺は首を強くふった。
「嫌だ」
 カタリナさんの頬がピクリと動いた。手がわずかに動くのを察知して、俺は素早く
後ろへさがった。が、彼女は剣を抜いてきたりはしなかった。
「なにか、問題でも?」
 その時のカタリナさんの顔を見て、俺はひどく泣きたくなってしまった。口をつい
て、言葉が出た。
「罪なんだ」
 その言葉にカタリナさんは怪訝な顔をした。
「罪人だったのか? 咎めたりはしない、だから…」
 顔を…、とまた、俺に一歩迫る。俺は首を横へ強くふった。強く横へふって、一歩
後ろへ下がった。
「きっとあんたを傷つけるから」
 当然のごとく、この言葉の意味をカタリナさんは理解できないで俺へ近づいた。俺
はもう一歩下がって、そして背中に木があたったのに気がついた。さっき隠れ潜んだ、
あの木陰をつくってくれた細い木だ。
 どうしようか、逃げてしまおうか。でも、そしたらこのひとは俺のことを犯人と思
い込んでしまう。俺はそんなの大丈夫だけど、このカタリナさんはどうなるんだろう
…。
 やっぱり、そんなの駄目だ。
「俺は…」
 その時、月の光が前より強く照ってきて、目の前が急に明るくなびいた。額と頬に
冷えた空気がどっと吹き込んで、視界が広がる。妙だ、今日は確かに二日目の月なの
にと思った瞬間に、足元に転がった自分の飾り帽子に気づく。何て速い手並みなんだ
ろう。大剣の振りとは思えない。俺の帽子は宙から落ちて、スカーフも切られて首か
ら下がっていた。
「どうして顔を隠したの?」
 カタリナさんが、感情を必死に抑えたのだろう、押し殺した声でそう小さく言った。
 俺の髪は明るくなびいて、風を受けて動いていた。なのに唇が動いてくれない。い
いや、たとえ動いてくれたとしても、いったいどんな言葉を出せばこのひとを助けら
れるのだろう?
 カタリナさんはランプに灯をつけて俺の顔を照らして、黙っていた。俺は目を合わ
せられない。
「黙っていると、怪我をするわよ。
 マスカレイドの場所を聞き出さないといけないから」
 ランプの数はたったひとつ。だけど、なんて明るいんだろう。この明るさでは、嘘
をつくこともできない。
「カタリナさん、俺の顔を見ないで」
 俺の声は、自分でもびっくりするほど小さくて。でもこの場所ではやけに響いた。
「似すぎている。あんたには辛すぎる。俺はあのひとに似すぎているんだよ。
 あんたが俺をそんな辛い顔で見るのが、俺には耐えられないんだ」
 俺は下を向いて、髪で少しでも顔を隠そうとした。
「あのひとに、似すぎているから」
 いっそマスカレイドを盗んだのが俺だったらと思った。そうすればカタリナさんに
マスカレイドを返してあげることもできるし、切り殺されてあげることだって出来る
のに。
 カタリナさんの声が辺りに響いた。笑い声だった。俺がその軽快な笑い声に顔を上
げると、カタリナさんが俺の帽子を拾ってくれた。
「おまえじゃない」
 カタリナさんは言った。
「マスカレイドをわたしから奪ったのは」
 俺はそんなカタリナさんに何を言ったものか…。
「お前のような優しい相手が、あんなことをできるものか」
 俺とカタリナさんとの目がはったりと合って、カタリナさんは俺をじっと見てくれ
た。正直、すぐさま目を逸らされると思いきや、けっこう長い間目を合わせてきた。
「似ているのは、姿だけのようね」
 そう言って、肩をすくめて、仕舞い忘れていた大剣を腰の鞘に収めた。
 よくいうよ。俺が本気で皇帝陛下のふりをしている時は、あんたなんかずっと気づ
かなかったじゃないか。それでもって、これからもずっと気づかれないんだよ、俺は。
「あなたがどうして、ミカエル様のなりをしているのかは
 聞かないでおいてあげるけど…」
 カタリナさんへ、俺は口をとがらせた。
「聞いてもいいよ。生まれつきに決まってるじゃないか」
 そうして声を大きくして続けて言った。
「言っておくけど、俺、魔族なんかじゃないからな!
変身能力なんて持っていたら、ぜったいこんな姿で出てきたりしないって」
 その声、姿で十分すぎるじゃないと言いたげなカタリナさんをよそにして、俺は続
けて言った。
「わざわざ狙われるような恰好であんたの前になんか現れないから!」
 こんな、人を傷つけるような姿で。
「そうね」
 カタリナさんはうなずいた。
「わたしにひと目で気づかれるような姿で近くを歩いてくるはずもないか…」
 カタリナさんは、そのあと、うつむいて静かに呟いた。
「あのひとは、今、何をなさっておられるのだろう…」
 俺はその言葉を聞いて、また湖の向こうの街の明かりを見つめた。今度はさっきほ
ど哀しくは見えなかった。俺はカタリナさんのほうを見て、溜め息をついた。
「内緒なんだからな」
 唐突に感じたのだろう、カタリナさんは怪訝な顔をしていた。
「ラストスポットなんだから」
 そう言って、俺はカタリナさんを手招いた。
「こっちへ来なよ。あのひとをみせてあげるからさ」
 少し驚いて、目を大きく開いたカタリナさんを、俺はやっぱり綺麗だと思ったけど。
 かつて初代フェルディナント帝の妃、ヒルダ様が愛したこの湖の静けさ。昼は深い
青緑色のさざなみ。そして夜は街明かりのゆらめき。足元には硝子細工が散らばった
ような、水面に映る星々のきらめき。
「ここからあの部屋が見えるなんてこと、知ってた?」
 その時のカタリナさんの表情を俺は忘れられない。
 水辺に足を入れかけて、遠くを見ると、ロアーヌの城が遠くに伺える。
「その城の、あの明かりが、カタリナさん。あんたのいう『あのひと』の部屋だよ」
「あれが…」
 その部屋で影が少しだけ動いていた。人のいる気配がある。
 そんなささやかな証拠だけで、カタリナさんは誰に見せるよりも魅力的な笑顔をつ
くれるんだ。
「ミカエル様…」
 それを聞いてだから俺は、なんでだろうか、溜め息だ。
「これがきっと、あのひととの距離なのね」
「だろうね」
 俺は帰ろうとして、背を向けた。
「あのひとにくっついてられるのは、足元でものまねしてる、影法師だけだからね」
 そんな俺に、カタリナさんはまた、笑いかけてくれた。
「ありがとう」
やっぱりこの人は綺麗だ。イライラしてしまう。寂しいんだろう、きっと。街明か
りを眺めた。自分自身に気まずくなった。寂しくなると、すぐにこうだ。
『俺のあのひと』は、いま…どうしているだろう。



[ No,195  ランカーク様 ]