ミス・ピドナと銀の腕
題名どおり、ミューズとシャールの物語です。熱い絆の二人が描かれております。
登場人物も2人のみ!!!
読みやすい文で短めに仕上げましたので、どうぞファンかた、読んでみてください。



「あ…」
 左手でナイフを握るのにも、だいぶ慣れたはずだったのに。
 剥きかけのジャガイモが転がり、ミューズの方まで行ってしまった。溜息をついて思う。自由が失われたとはいえ、ついているだけマシだと思った方がいい。自分の右手をなげくのはやめよう。
「まぁ、シャール。それくらいわたしが…」
 自分のヘマをミューズに見られ、顔を赤らめてうつむいた。
「こ、これが最後のひとつですから」
 ジグザグに皮を剥かれかけたジャガイモを拾う。ミューズはそんなシャールの背中を見て少し笑った。
「無理して、指を切っちゃ嫌よ」
「気をつけます」
 シャールはいそいそと食事の準備を続けた。
 ミューズは目をつむる。咳をこらえて、まくらに頭をうずめた。
「もういちど城へ戻れたら…」
息苦しかったため、小さな声しか出なかった。
「忘れてきたシャールの銀の腕もとってこれるのに…ね」
 え…? とシャールが振り向いた。何を言ったのかと訊ねても、ミューズはゆるやかな眠りについたようだった。


 …館に何人もの兵隊が押し寄せてくるだろう…。シャールはその光景を目で目の当たりにするまえに察していた。見なくてもわかっている。そう、権力がやぶられるときなどは、いつもそんなものだった。
「さぁ、ミューズ様、先へ…」
「でも、シャール」
 ミューズはかたくなに彼の言葉を聞こうとはしなかった。首を左右に必死にふる。
 クレメンス亡きこのクラウディウス王朝で、唯一つ生き残っているのは、この心許ない姫だった。いや、本来は王亡き後なので、女王とでも呼ぶべきひとなのだが、その名前はあまりにも彼女にふさわしくなかった。心なしかまだ幼いあどけなさ、可憐さを残しているこの女性は、いまだシャールの心の中でも「お姫様」に違いなかった。
 あの、優しき王が亡くなったなど、未だに信じたくはなかった。しかし。
「必ず、後から追って参ります。必ず…」
 言ってはみるものの、涙をうかべたミューズの顔が、シャールの心を殴りつける。本当は一緒に手をひいて逃げてやりたかった。あまりに突然、父親を失った…しかも「恐らくは暗殺」であると囁かれ、彼女を慰めるべき人々でさえ早足に彼女の元を去り、あるものは新しいほうの権力に組していった。人の持つ忠誠心のはかなさと、腹黒い裏切りとを、この歳にしてまざまざと見せつけられた…。自分の受けた傷心など、ミューズ様のそれと比べたら…。
 廊下を走って近づいてくる足音。その雑音の激しさと数の多さを、ミューズは白い肌を青白くこわばらせて聞いた。
「シャール、あの人数を相手に…」
 シャールはもういちどゆっくりと、この愛されるべき美しい姫君を見つめた。少女はあまりに美しかった。美の女神の名を授かったものの、その名前ですら彼女の輝きの前では無意味に思えた。そしておそらくは逆なのだろうとさえ思ったのだ。美の女神の名はきっと、ミューズという姫君の美しさからついたのだ、と。
 シャールはミューズの髪をくしけずってきちんと整え、そして自分も身なりを整えた。最後に見るミューズをしっかりと覚えておけるよう、そして自分もなるべく格好良く覚えてもらいたかったのかも知れない。
 ミューズの目から涙が落ちた。シャールは自分の黒いマントで彼女の頬をふいた。金の留め具をはずし、マントをゆっくりとミューズの肩にかけた。
「この抜け道は隠し通路になっています。わたしが扉を閉めましょう。
 外へでたら、商人のひとりにかくまってもらえる手はずになっています。
 わたしも必ず、そこへ向かいます」
 ミューズが黙ってうつむいているので、シャールは懸命に笑ってみせた。
「ミューズ様…」
 シャールは両手に剣を持ち、それをシャンと音を立てて抜き放って見せた。刃が、シャールの銀の髪のように輝いた。
「わたしは、この剣が自分の腕となるほどに訓練をつみました。
 いまこそ、この銀の両腕にかけて、王とあなたとに忠義を誓うときなのです」
 ミューズの涙を止めたかった…。
「いつの日も、あなたを守りたいと願って、この腕と魂を磨いてまいりました」
 ミューズはそんなシャールのために懸命に口唇をひいた。それでも涙は流れて、ポロポロと絨毯に落ちた。
「必ず、迎えにきて」
 大きくうなずき、シャールは答えた。
「もちろんです。…初めてお会いした時より、この腕と魂はあなたのものです。
 あなたのある所に、必ずや戻ります」
 そう告げると、背を向けた。
「扉を閉めますよ。…お気をつけて」
 その剣客の背中には、最後となったクラウディウスに仕える戦士の紋章があった。やがて扉がしまり、その姿も消えてなくなった。


「さっき、何て言ったんです?」
 食事をしながら、シャールはミューズに訊ねた。ミューズは少しだけ恥ずかしそうにうつむいて言った。
「あなたが王宮に忘れてきた、銀の腕のことを…」
 はて、銀の腕…? そんな持ち物あったかな…? シャールは思い当たらず首をかしげた。
「…いいの、わたしの思いでの中だから…」
 そう言って毛布に顔をうずめると、続きを何も言えなくなったので、穏やかで豊かな沈黙にふたりは身をまかせることにした。


[ No,195 ランカーク様 ]