The cracked mirror


クレイは鏡の前に立って、ジーク・ゴドウィンの死体を見下ろした。
すべては宿命だったんだよ、ジーク。君が招いたことだ。アカデミーを落第になればすむところを、ミュルスの路上から宿無しの僕を拾ったからだ。その僕が描いた絵でロアーヌ一と賞賛されることを一年もやめなかったからだ。そして、僕が自分の作品として隠しておいたものを、勝手に引っ張り出そうとしたからだ。
ジークの首をしめた麻縄を、クレイはするりと抜き取った。
熱病の発作、苦しかったみたいだね。楽になった?
それからクレイは鏡を見つめた。ジークは気がついてなかったかも知れない。また、気付いても認めたくなかったに違いない。クレイの胸がちくりと痛んだ。

クレイは外見がジークと双子のように似ているのだ。

ロアーヌ貴族の若者ジーク・ゴドウィンは、人目をひくほどの金髪碧眼のハンサムで、芸術に関心があったが技術が伴っていなかった。しかし伯父夫妻は息子同然のジークにわがままを許して、眺めのいい丘に別邸兼アトリエを立ててやった。そこで努力を知らないジークがすべきことは、無名の天才画家を連れてきて自分のかわりに傑作をつぎつぎ作らせることだった。
今みずぼらしい服装のままのピーター・クレイは、これからジーク・ゴドウィンと入れ替わる。ジークは生きているときクレイを幽霊画家にしたが、今度はクレイがジークという名を貰いうけ、本人から豪奢な衣装と芸術を披露する場を受け継ぐ。そのためには逃げてはおしまいだ。
自分の作品惜しさに彼を殺そうという野心はなかった。ジークはクレイを奴隷のように使ったわけではなかったし、友人といってもいいくらいだった。
今度のもロアーヌで絶賛されたと喜んで戻ったジークは、ただ、欲を出して新作を催促した。クレイのデッサン帳を盗み見て、別の作品が隠してあることをつきとめたのだ。だがクレイをしたたか殴りつけ、「自力では筆一本買えない身分の分際で!この先も一生、影でしか描かせてやるもんか!」と怒鳴ったとき、異変が起きた。

ジークは恐ろしい熱病にかかったに違いない。だからこの入れ替わりは謀略ではない。ジークになりきるだけの彼のくせ、喋り方、声のトーンまで、クレイはごく自然に覚えたのだ。
クレイは鏡に向かい弁明した。
ジークが死んでも作品だけは残ってる。ジークは作品よりも弱かったというだけのことだ。これは不可抗力。

それから数日、ゴドウィン男爵はクレイを迎えたが、次の作品を芸術に造詣の深いラウラン伯爵に認めさせて栄誉を得ようということで頭が一杯になり、偽物と見破ることが出来なかった。奥方はいつもより痩せて青白い顔の甥が、芸術に没頭しすぎて病気になったのではないかとせっせとご馳走でもてなした。こうしてジークになったクレイは男爵夫妻の邸に滞在し、ある日、王宮に新作を携えて出かけた。
その新作は彼が以前から構想し完成させていながら、ジークの名で発表されることに我慢がならず隠しておいたものである。それはスラムの街路に佇む、美しくも妖しい一人の女性が、じっとこちらを見ている絵だ。女性の目は淡い緑で、春の森の色をしていた。また着ているドレスは古めかしいレースがついていて、ひだのひとつひとつが光沢を帯び、背景に目をやればくすんだピドナの空気の質までも伝わってきそうだった。
貴族たちは風景の具象画が出るとばかり思っていたのに全く違ったので驚き、これはいつもにもまして傑作だと誉めそやした。侯爵もこれを買い取りたいと申し出するほどで、ジークことクレイの名声は不動のものとなった

―――かのように見えた。

「おお、ラウラン伯爵、またジークが新作を持ってきてくれたのだ」
侯爵は入口に現れた長身、銀髪の貴族に嬉しそうに言った。
「たしかに、よく出来ていますな」
ラウランは慎重に絵に近づいた。
会釈したクレイは彼を警戒して目を合わせないようにした。
「ジーク、2、3尋ねたいが」伯爵は言った。「これはピドナのスラムではありませんか?」
「はい、インスピレイションを得ようとピドナに参りました」
「なにか、・・・モンスターに遭遇したのかな?この絵には、失礼だが魔物が持つパワーのようなものが感じられる。このところの不吉な天体の動きと関係が?」
「いいえ?無事でしたし、天体のことは考えていません」クレイは微笑んだ。「でもこの女性は、スラムで実際に見かけた人物です。みたこともないほど美しく、なぜか僕を招いていました。僕は思わずついていきました。そこは、魔王殿の跡で、怖かったんですが、これほどの想像力をかきたてる対象ははじめてだったのです。それにモンスターに出会うことなく深部まで辿りつけました。・・彼女はそこにいて、子守唄のようなものを歌っていました」
侯爵らはこの話にのめりこんだ。ラウラン伯爵だけは少し冷めた様子である。
「それで、彼女は何かいったのか?」侯爵は興味深そうに言った。
「かつて、無実の罪で投石刑にされたガラテアという人の話を聞かせてくれました。貧しいけれども美女だった彼女はピドナの画家の若者と愛し合っており、教会に行くお金がないので密かに結婚して子供もいました。そして金持ちの下級貴族の愛人になるのを断わったために犯してもいない罪をでっち上げられ、また夫人は"断わった"そのことにも腹を立て、魔女と罵りながら赤子をとりあげ、死ぬまで石をぶつけたのです」
クレイは自分の話に夢中になっていた。目が熱を帯び、現場を見てきたかのように語る。人々はクレイの話に引き込まれ、その場の当事者になったような感覚に襲われた。

「彼女が貴族ならば、そんな罪には問われなかった。彼女にお金があって、式をあげていれば、教会も味方したはずだった。ピドナ市民は、吹きこまれた嘘の矛盾に目をつぶり、彼女の言い分を少しも聞こうとしなかった。
ガラテアは眼を石で打たれて血を流し、それでも赤子を探したのでした。自分の子が見えないので声が聞こえる赤子なら誰にでも手を伸ばそうとしました。蹴られ、殴られ、石畳につまづき、鞭を食らって、ついに息が絶えるまで!
貧しい夫は自分の無力を恥じて首を吊ったといいます。しかし芸術家の血を受け継いだ赤子は成長し、ろくでなしの貴族の若造をひとりほふるという、いかにも象徴的な復讐を遂げたのです―――」

そこでクレイは自分が何を言ったか気がついた。
「だとすると君は、何者かな?」ラウランが優しく言った。
「何を馬鹿な!ジーク・ゴドウィンですよ!」
男爵がぎょっとして言った。「かつてないほど素直で、これなら安心して跡を継がせられると思っているのですぞ」
「ジークは、絵の説明をしたことなどなかったはずです。また、貧しい人々にこれほど同情できる性格でもない。しかし、この絵は傑作であり、作者は紛れもなく君だ。最後のセリフは物騒だったがジークは元気かい?」
クレイは口をあけた。目の前は真っ白だ。
「僕は・・クレイといいます。ジーク様は、僕の絵を自分のだといって・・だけど、熱病でお亡くなりに」
男爵が口を開こうとするのを侯爵は制した。
「ここは言葉を費やさぬほうがジークの名誉のためだ」
そして家臣らに目で合図した。兵士がどやどやと出ていく。ジークの別邸を捜索するのである。クレイが大雑把に埋めた死骸はすぐ見つかるだろう。

「できたら別の作品も拝見したいが、クレイ君?」
ラウラン伯は何事もなかったかのように言った。
クレイはさっぱりとした顔で伯爵を見上げた。そこが王宮の広間で、居並ぶ貴族や侍女が自分を奇異と憎悪の目で見つめていることなど感じていない様子だった。
「あなたはすごくいい方です、だから、見せるわけにはいきません。ガラテアとその息子が一緒に座ってる像なんですけど、あれを御覧になったら目が潰れます。ジークのように」
「ジークのように?」
「ええ、それを見て狂いました。目に呪いがこもってるんです。虐げられた者からの、それを虐げたものへの―。作ったのは僕ですが、あの呪いは僕には制御できない。貴族だったら善人でも呪われるかもしれない。
新作を隠してあることがバレて、彼があれを出せと僕を殴ったとき、奥の棚にかけた鍵が勝手にはずれたんです。像はその目から血を流しました。投石されたときの傷が甦ったかのように生々しく。僕はそのリアリティに我ながら感動しました。これほどの傑作はもう二度と作れないと思えるほどです。ジークはというと、それを見て恐がり、吹き飛ばされたように暖炉や柱に体を打ち、悲鳴をあげて助けを乞い、慈悲をと叫びました。最後に床に倒れたとき、彼は血まみれで、ひたすら痛いと訴えました。僕には彼を楽にしてやる以外、できることはなかった。彼は、彼は・・・」
クレイはちっと舌打ちをした。「彼には、褒めてもらえると思ってた」
「クレイ、君はどこまでも芸術家だな」
間があった。
「あなたのような貴族に、もっと早くお会いしたかった。出来ることなら、あのときジークと出会う前に、ミュルスの路上で」
クレイは微笑んだ。まるで赤子のように無邪気な顔だった。
「そうだな、私の遅刻だ」
ラウランの優しい語調に憐憫を感じたのかクレイは言った。
「死刑は怖くもなんともありません。《死をたたえよ、死は幸いなり、いざ、幸いの地へ》これは、魔王殿の地下で見つけた詩です。僕に母が残してくれた、唯一の言葉でした。・・・
ありがとう、伯爵様、おかげですべて思い出すことができたみたいだ」
クレイがふっと笑うと、前方に飾ってある大きな鏡が音を立てて亀裂を生じ、砕ける寸前で止まった。このとき、大半の人々は、この美しい若者は魔物ではないかと疑い始めた。
ラウランは邸に戻って、ピドナでのガラテア裁判の記録を読んでみた。細部に至るまでガラテアの有罪を力説してあったがその論調は矛盾だらけだった。残った赤子はピドナのレオナルド工房が預かろうと申し出たが、いつのまにか行方知れずになったとあり、それが17年前。その赤子が成長していればクレイと同年である。そして名前はピーターではなくピグマリオン・クレイ――。

復讐は象徴的に、か。それは妄想じみている。彼は渾身の作品である像が本当に動き出すと"信じたかった"だけではないのか。そして横暴なジークから解放されたと同時に、惨めな自由にも絶望し自分も陶酔としての死を望んで、わざとガラテアの話を聞かせたのではなかったのか―?

ラウランはクレイが熱病のジークをみとっただけの可能性を探ったが、ジークの死体は体中を殴打され首を締められており、その場にいたのはクレイだけなのだった。ゴドウィン男爵夫人はショックで寝こんでしまい、男爵はあくまで極刑を求めた。そして当人も頑として死刑を望んだため、数週間後にクレイは処刑された。
これと時を同じくしてそこかしこに突如として火災渦が発生し、それでいて空気が異様に冷えていくという事態が発生した。これを受けて、ロアーヌ候も家臣を集め、来るおそれのある魔物の攻撃への備えを固めることになった。

ゴドウィン男爵はこの混乱に乗じて、クレイが残した傑作を回収して売りさばこうと考えた。無論、騙された腹いせでもある。しかし別邸に男爵と家来が駆け付けた時、ミイラのように痩せた僧侶が二人、荷車でなにか坐像を持ち出すところだった。「死食に間に合った」という低い声が聞かれた。
男爵はそこで「待て!」と怒鳴った。だが振りかえった僧侶の顔が余りにも不気味だったせいか、ゴドウィンはそれ以上言葉が出ず、乗っている馬はすくんで動かなくなった。そこで徒歩で家来が跡を途中まで追ったが、のろのろとしか動かないはずの荷車に追いつけず、その姿は濃くなった霧にまぎれてとうとう見えなくなったという。



[ No,369 サリュ様 ]
-コメント-
オリジナル色が濃いですが、15年前の死食手前、ロアーヌという設定で書きました。 初投稿なのに暗くてすみません。。