夕日に思いは溶かされて

この城に皇子はひとりの部下を忍ばせていた。誰にでも内緒にしているつもりで、そうして本当に内緒にされたままの部下であるこの青年は、ひとり部屋でたたずんでいる。
退屈のせいじゃない、なんの癒しにもならない溜め息を繰り返して青年は、窓を見つめていた。外には夕焼けと、それを映す鏡のような湖が輝いている。
 忘れられない情景が、頭と心を占領していた。
「変わったことはなかったか?」
 皇子であるミカエルは、部屋へ入るなり部下にそう訊ねた。
「はい、まったく」
 部下の青年はそう答えた。
「まったく?」
「はい、具合が悪いと言って、部屋にずっとおりました」
 ミカエルは眉をひそめた。これは彼が不愉快なものをみたり聞いたりしたときによくやる癖である。部下である青年はこれも真似しなくちゃいけないのかなと、眺めて観察していた。部下といっても役職は公ではない、影武者だった。似ていなければ話にならない。
「一週間もか?」
「ええ、一度、部屋を出ただけです」
 ミカエルは溜め息をついた。
「もう少しまともに役割を演じてくれないと困る。これからも長旅をしたい」
 放蕩皇子め…影武者はミカエルがやるように眉をひそめて皇子を見た。ミカエルがオリジナルで反論したのですぐにひっこめたが。
「あの、ですがもう少しミカエル様…あなたのことを教えてくれないと困ります。
 誰があなたの知り合いで誰が初対面かもわからない状態で、
 一週間も演じろといわれたんです、わかってください」
 さすがにそうだとミカエルも思った。この国の王妃であった母が死んでからもあまり時間が経っていない、具合が悪いなどと言って一週間も閉じこもっていたのなら、父親は相当な心配をしただろう。何かいいわけでも考えておくか…。
 上着を脱いで寒いなと感じ、窓を締めに窓際へ行った。
「一度、出掛けたといったな、何処へ行った?」
「湖のほうへ散歩に…あまり閉じこもると医者を呼ばれると思いました」
 彼なりの苦労が伺えたので、ミカエルはそれについては何も言わなかった。しかしそのときの状況は聞いておこうと思った。
「誰にもあわなかったのか?」
「いえ、ひとり逢いました」
「誰だ」
 影武者は少し躊躇ったあと、言った。
「カタリナさんです」
「カタリナ…?」
 ミカエルは貴族たちの名前を頭のなかで何度かめぐらせた。
「あの、ラウラン家の剣士か」
「そうです、ミカエル様がお出かけになってから数時間後ですが、
 正式にモニカ姫の護衛をつとめることに決まったので城を出入りしてます」
 会ったことがなかったな…とミカエルは呟いた。それでは今度あうときは初対面ではないということになる。
「どんな相手だ?」
「どう、と言われましても…」
 影武者はとまどいながら呟いた。ミカエルも思った、人間をどうだったと聞いても返答に困ることはあるだろう。
「お前がどう思ったかでいい」
 すると、影武者は窓を見つめて呟くようにこういった。
「優しくて、強くて、花のように綺麗なひとでした」
そうしてまたひとつの溜め息を漏らす。


モニカ姫が「カタリナ」の名前を覚えるのははやく、事あるごとに「カタリナ」は馳せ参じていた。今日の乗馬の練習も例外ではなく、姫はいったい何度「カタリナ」と呼んだだろう。ロアーヌに仕えてまだ一週間も経っていないのに、数いる侍女のなかでもすでに名前は知られていた。
 水辺の道を小走りに、カタリナは家へ急いでいた。暗くなるにはまだ少し猶予があったが、カタリナにはやりたいことがあったからだ。普通の女性のたしなみとは違う、別の興味…剣術の稽古だった。剣を振らなければ、彼女の一日は終わらない。
夕日が辺りを真っ赤に燃え上がらせ、その赤を湖がまったく同じように映し出していた。ロアーヌの景色のなかでも屈指の絶景と言われているこの湖沿いの道を、大きな剣を背負った少女が駆けていく。
「ああ、綺麗だ」
 急いではいたものの、カタリナは立ち止まってその光景を眺めた。いままさに湖は空と色をひとつにしようと、輝きを増していた。
風が吹き抜けて、背中の剣に長い髪がぶつかる。カタリナは家路を急ぐことにした。
 あの日から膨らみつづけるカタリナの夢。初めて見る皇帝陛下、フランツ様。愛らしいモニカ姫。自分は剣を愛していた。カタリナの背にはまだ大きすぎる大剣が、彼女の夢を現実のものにさせる。その剣はカタリナ自身に名誉をもたらしてくれた。城内ではささやかれ始めていた…才能から恩恵を受けた人間がまたここにひとり現れたということ。そして女でなければという嫉妬の声とともにカタリナの名を有名にさせていた。
 カタリナの口から、明るい音楽がもれた。誰もいないことをいいことに、声はすこしづつ大きくなっていく。一日が終わるのも悪くないと思った。明日も晴れるに違いないと思うだけでいい気分になれる。
 しかし流れだした音楽はすぐに途切れた。人を見かけたからだ。聞かれていたかもしれないと、少しうつむいて足をはやめる。恥ずかしかった。しかし近づいていくとその相手がとても気になった。顔をかくすように首にまかれている、相手のスカーフが気になったのだ。帽子もかなり深くかぶっており、明らかに顔をかくしている。
モニカ姫の護衛を務めはじめてから、不審な動きというものを敏感にキャッチするようになっていた。相手の動きはどことなく、そんな空気を漂わせていた。
 カタリナは後ろを振り返った。後ろには城の裏門が見えている。一応すでに城外のこと…顔をかくして歩いていけないという法は聞いたことがない。しかしカタリナはすでに思っていたのだった、「姫を守っているのは自分なのだ」と。それは虚栄心であると人は言うかもしれない、カタリナがモニカ姫を慕っていなければ確かに虚栄心だと言えたが、彼女のそれは違っていた。
「そこのあなた、名前は…?」
 相手は少し驚いたように振り返った。カタリナよりは年上らしいが若かった。少なくとも城のなかで見たことのない相手である。カタリナが働きはじめて一週間、まだ知らない相手のほうが多かったが、歳の近い相手はほとんど覚えたはずだったのに…知らない顔だった。
「お前は?」
 先に名乗れというのだろうか。しかし自分が名乗らないのに名前を聞いたのは不躾だったと思いなおして、カタリナは名前を名乗った。
「カタリナと申します」
「ああ、例の」
 相手はゆっくりと歩いてカタリナの隣に並んだ。
「侍女として城に迎えられた、あのカタリナか」
 隣に来たので、カタリナは相手の顔をもっとよく見た。サラサラと長い金色の髪とその明るさとは対照的な、大人っぽい深い青色の瞳が帽子の間から見え隠れした。身長は少しだけ相手のほうが高かった。
 カタリナは念のためにもう一度名前を聞いた。彼は素直に答えてはくれない。
「城にすんでいる者だ」
こんな返答があっただけだった。
 言葉だけを考えると不審に違いはなかったが、態度や語調に嘘は感じられなかった。それに相手の態度はどこか洗練されており、不審者というにはあまりにかけ離れているようにも思われた。そして名前を聞いたところで自分に不審者かどうを判断できるかというと、わからないだろうとも思った。まだ城に努めて日が浅すぎる…身近で一緒に働いている侍女たちの名前と顔を、ようやく合致させたばかりだったのだから。
「ここで何を?」
「湖を見に」
 相手は湖を指さした。確かに夕日が湖に映えて美しい。湖はとうとう空と色を同じにしはじめ、溶け合って水平線の見分けがつかなくなっていた。息が絶えるほどの情景…わざわざ見に来ても不思議はなかった。
「かつて、初代フォルディナンドの妃、ヒルダ様が愛したという湖」
 青年の口から、そんな言葉が流れて消えた。カタリナはしっかりとそれを聞いた。絶世の美女として名高いかの王妃が、この湖を愛していたのかと感心した。毎日見ているこの夕日と湖は、それを知っていても知らなくてもかわりばえはしないはずなのに…一段と美しく思われた。知識というものはきっと、こうやって使うものなんだなと感心した。
「ヒルダ王妃も、若くして病気でなくなられたと本に」
カタリナは、思わず相手を見た。
どこかにぽっかりと、穴が開いたような感覚がこの場所を満たしていた。まるで時間を失ったようだ。このひとはどうして数百年も昔に死んでしまった王妃の死を悲しんでいるんだろう…。
その雰囲気に絶えかねて…自分はこういった雰囲気に本当に弱いなと自覚しつつもなじめずに…カタリナは話題を変えようと提案した。
青年がじっとカタリナを見つめた。カタリナは自分がなにか妙なことを言ったかしらと首をかしげる。よく考えたら、こうして話を続ける理由もないのに、話題を変えようとは妙だったかもしれない。
「大きな剣だな、重くないか?」
相手は、ほんとうにどうでもいいことを聞いたつもりなのだろう。しかしカタリナにとってはかなり真剣な質問になった。
「重いだなんて…剣は、わたしの魂ですから」
 まだ挫かれたことのない自信。その自信を砕く人間が現れたとき、あるひとは剣をやめ、あるひとは続けて剣客になるのだろう。それとも、生涯にわたってそういったひとに出会わない、神のような天才か…。
「どうして剣をはじめた?」
 青年はカタリナを真っ直ぐに見た。カタリナはうつむいて恥ずかしそうに言った。
「いじめられて、泣かされたのがきっかけなんですけど…」
そしてその次の言葉からは、青年の目を見つめ返してはっきりと言う。
「でもようやく、自分以外も守れるようになってきました。
 わたしは、わたしが大切だと思うもの、すべてを守りたいと思って剣を…」
どうして初対面にこんな話をしているんだろう。
「あ、わたしったら…」
 カタリナがまごついて、二人の会話は途絶えた。
 空はすでに暗くなり始め、あたりは紫色に染まっていった。一番星が太陽のとなりに反抗するように輝きはじめ、冷たい風がふたりの間を走って消えた。
「くしゅっ」
 カタリナがくしゃみをした。季節はまだ悪くないのに、朝と夕はとても冷えるなと背中の剣を背負いなおした。
 青年はスカーフをとると、カタリナの首にまいてやった。
「あ、そんな結構です」
 断ったが、すでに温もりがカタリナの首元をおおっていた。
「わたしの家はあの城だ、お前のほうが遠い」
 スカーフの中に隠れていた顔がカタリナの前にあらわになった。カタリナは息を飲む…美しかった。しかしただ美しいだけではなかった。それは憂いを帯びていた。一種の虚無を帯びて目の前にたたずんでいた。
「あの…」
 カタリナは何かを言おうとした。しかし彼はさっさと城の中へ消えてしまった。
「…スカーフ」
 城に務めているひとなら、誰かに訊ねればわかるかもしれない。とにかく名前のイニシャルくらい入っているだろうと確認する。文字は「ミカエル」とあった。
「…ミカエル…様? まさかそんな」
 まだ会ったことのない、皇子の名前だった。
 ヒルダ王妃も、病気だったと…。何百年も昔のその死は、先月の死を連想させて流れ続けていた。


旅の荷物をクローゼットへ投げ入れ、中を覗いたミカエルは言った。
「スカーフが一枚、足りないな」
 影武者は答えた。
「寒かったので、カタリナさんに貸しました」
「そういうことはあまり頻繁にするな」
 そう言って…ミカエルは疲れたのだろう、奥の寝室へ去った。
 最近になって外出が増えてきた理由を、影武者は彼なりに解釈していた。きっと悲しいんだろう、と。自分とやりかたは違っていても。
 入り込んでくる夕日に誘われて、窓際へと足を運ばせる。カタリナが家路をいそぐ姿が小さく見えた。
 退屈のせいじゃない、なんの癒しにもならない溜め息がくりかえされる。
 外には夕焼けと、それを映す鏡のような湖が輝いていた。



[ No,195  ランカーク様 ]

-コメント-
僕には定番ですが、ロアーヌにおけるミカエル、カタリナ、影の話です。