雨宿り〜Ragazzazio scherzo〜


いつも陰鬱な暗さに覆われているポドールイが、年に一度だけ賑やかな普通の町にかわるときがある。それはツヴァイクにほど近い村で催される羊の毛刈り祭りの日である。
シャールはたまの楽しみを求める人々でにぎわうこの祭りにやってきたが、それはミューズが使う毛糸を調達するためであった。刈ったばかりの上質の羊毛が、このときは市価よりかなり安く手に入るからである。
それにしても、この国境の村は日頃の物々しいツヴァイク警備兵の姿もなく、羊毛を売買する店はもちろんのこと、食べ物屋台やにわかづくりのパブまで現れて通りぬけるのも大変だ。実は人ごみが苦手なシャールは2往復歩いただけで疲れを感じた。しかも筋肉質の若い元戦士に袋一杯の荷物がふわふわの毛糸では不似合いなことはなはだしく、すれ違う人が不審に思ってチラチラ見ていることもある。シャールは鋭敏な感覚のせいで余計にそんな気配を感じてしまい、居心地を悪くした。
ミューズは再三にわたり、たまのお祭りだからゆっくりするようにと言っていたけれど、彼は用が済めばさっさとピドナへ帰るつもりだった。病身の女主人を置いていつまでも留守にするわけにはいかず、またゆっくりできるほど余分なお金を持っているはずがない。
・・・とは分かっているのだが、店が多くて呼び声も明るいために彼はついつい足を止め、毛織物のショールやきれいな靴を見ているうちに、どれもこれもミューズに買っていきたくなりつつあった。
そして、露店が途切れた場所にさびれたパブを見つけたシャールは、そこに埃だらけで古びた小型のピアノがあることに気がついた。
自身は呼吸器が弱くて歌えないけれども、ミューズは昔から音楽を好み、小さな子供らの音程のはずれた歌にさえ目を細めて喜ぶことがしばしばであった。自分は右手が不自由だから簡単な曲しか弾けないが、それでもこんなピアノを持って帰ったら、彼女はどんな顔で驚いてくれるだろう――。

シャールは懐具合を調べながら、交渉して安く譲ってもらえないかと考えた。意を決して中に入ると、パブの主人はすぐ出てきて、そのピアノは邪魔だからうんと安く譲ると言ってくれた。
しかしそれでも所持金ギリギリだった。つまり、ピアノを手に入れるまではいいが荷馬車を借りる分が不足。持ち帰る手段がないのである。
考え込むうちに、ポドールイ地方特有のしとしと雨が降り始めた。せっかくの賑やかな通りも多少人が減り、足元からまとわりつく冷たさに、祭りの熱気は中断されてしまっていた。
シャールはパブの中からこの様子を眺め、手持ち無沙汰になってピアノを開けてみた。と、そこに小さな白ネズミが一匹うずくまっている。どうやってピアノにもぐりこんだやら、ネズミは足をひきずり、シャールを見て逃げ出そうと身構えた。背中にも治ったばかりの切り傷がある。
「おい、待てよ」シャールは小声で言った。
パブは雨のおかげで客が増えてきて、主人はネズミどころかシャールの存在もまるで目に入っていない。
ネズミはふと立ち止まり、小柄なわりには立派なヒゲをひくひくとさせて警戒した。
「見せてみろ」シャールはネズミの腰のあたりを指で慎重になでた。脱臼している。
「これは簡単に治るぞ。ちょっと痛いけど我慢していれば…」
ゴキッ。
ネズミはキイと鳴いたが、周りがうるさいので誰も聞いていなかった。
「もう治ったはずだ。歩いてみろ、ちびすけ」
シャールは微笑んで言った。どうしてこんなネズミに親切にしたくなったのか、自分でもよく分からない。しかし、ネズミはシャールの言葉を理解したように、ゆっくりと鍵盤のほうへ歩いていった。 そしてシャールのほうへまっすぐに向き直った。よく見ればできたてのワインのような赤く澄んだ目をしている。
「礼はいいぞ。これでも戦時下の応急処置には慣れっこだ。脱臼は誰でも経験してたからな」
ネズミはそうか、というように肯いたようだった。シャールはまるで人間のようなネズミの反応に笑った。
「お前、まさか弾けはしないよな?」
するとネズミは鍵盤を見まわした。そして半音を確かめ、後ろ足で立ちあがって、タンタンタン・・・と踏み心地を調べる様子をした。 シャールは首を傾げ、傍の雨漏りの音に合わせて左手で軽い曲を弾きはじめた。

♪‐♪‐♪‐♪♪・・・

客たちはまだ話と飲み物に夢中で、突如奏でられた旋律に耳を貸していない。
シャールはそんなことは気にせず、ネズミに語り掛けるように弾きつづけた。

♪♪♪♪‐♪‐♪‐♪♪♪‐♪‐♪‐♪♪‐♪‐♪♪♪

するとネズミは急に、離れた鍵盤へちょんと跳んだ。

ポローン♪
客のひとりがこの音に気がついた。
ネズミはシャールの左手に合わせ、右側で1オクターブ違いのメロディを踏んだ。
「やるじゃないか」
シャールはネズミに言い、速度を早めて右手も少しだけ使った。ネズミはこれにも応じ、旋律を支える低音をリズミカルに跳んで見せた。こうなるとパブの客らは無視できなくなって、ピアノのほうへ向いて座り込んだ。
シャールはネズミと競争するようにテンポを速め、音を重ね、曲を盛り上げていく。

♪♪♪♪‐♪‐♪‐♪♪♪‐♪‐♪‐♪‐♪♪♪
♪♪♪♪♪‐♪♪♪♪‐♪‐♪‐♪♪‐♪♪♪

ネズミはさらに鍵盤を跳ね回り、客たちにはシャールが3本の手で弾いているように聞こえた。
曲が終わると狭いパブ一杯に拍手と口笛が鳴り響き、ネズミは驚いてシャールの荷物に隠れてしまった。
「やあ、こんなボロでも弾く人によるのだね」主人が嬉しそうに言った。
「お客さんのためにもう一曲頼みたいが」
「え、でも・・」
「いいじゃないか、知ってる曲で構わないから」
客も口々にシャールを説得し、シャールは分かったと言って座りなおした。傍にいた吟遊詩人が、頼まれてもいないのに小型の弦楽器を取り出し、うやうやしく客に会釈して、音楽が始まった。
そこでネズミはまた出てきて、シャールに合わせて賑やかに鍵盤の上を滑った。右手が届かないキイでも素早く叩いた。
「やあ、見事な腕前だね」
客たちも主人も、もちろんネズミが一緒に弾いているとは知らない。
フェルディナンドのマーチ、ミュルスの舟歌、情熱的なナジュの舞曲、ピドナの銀行が作らせたCMソング・・
シャールは楽しく弾き、ネズミは疲れを知らないどころか、初めて聞くような東方のメロディでもあっという間にキイに置き換えた。そのおかげでシャールもすぐに弾き方を閃き、生来の器用さもあってか、弾くうちに格段に腕が上がっていた。

―ちびすけ、お前は天才だ。
シャールがそんな視線を送ると、ネズミは当然だという顔でおどけて見せた。

いつしか雨があがり、ピアノの横のテーブルには客たちが置いたオーラム銅貨が沢山積んであった。どういうことか分かっていないシャールにパブの主人が言った。
「その金はお前さんのものだよ。こんなことならピアノを売るんでなくて、お前さんを雇えばよかったな」
パブを出ると、山にかかった雨上がりの夕日がひときわまぶしかった。シャールはパブの主人に礼を言い、借りた馬車に毛糸とピアノを積みこんでこの村をあとにした。オーラムはまだ余裕があり、これならピドナに入る手前で花束でも買えるだろう。

村からの道を西へ曲がったとき、ネズミは荷物の中から顔を出した。
「よし、ちゃんといたな。これからピドナに戻る。お前も来るんだろ?」
ネズミは落ち着かない顔で荷物によじのぼった。
「悪さをしないと約束してもらうけどな」
ネズミは鼻をひくひくさせ、躊躇っている様子だった。
馬車はピアノを傷つけないためにゆっくり進んでいた。すっかり日が落ち、そろそろツヴァイクの街道に出る。所々の詰め所で兵士が交代する姿が見えた。
シャールはそこで不意に思い出した。
ツヴァイク公が教授に依頼して軍事用のネズミを作らせていたという噂を。
計画は頓挫していたが作られたネズミが天才だったことは間違いないと言われていた。
天才ネズミ"アルジャーノン"・・・その生き物は他国侵略の武器であり、決して戯れにピアノを弾く友達として生まれたのではなかった。

そのとき、ネズミが荷物を駆け下り馬車を飛び出したので、シャールは思わず手綱をぐいと引いた。
「ちびすけ?」
ネズミはシャールを見つめ、わき道にさっと飛び込んだ。
その急な態度の変化に、シャールは、ネズミが自分の考えを読み取ったのだと感じた。
「一緒にくればいいと言ったはずだ。スラムは殆どネズミの巣みたいなところだし、誰もお前のことを疑いはしないさ」
シャールが根気良く声をかけるとネズミは草むらでまたひげをぴくつかせた。
考え直しているのだろうか。

「こんなところで降りたら、ツヴァイクだぞ」
それとも、西の森を目指しているのか。
ネズミは彼の内心の問いに肯いたように見えた。そしてシャールに背を向けて、ツヴァイクの街道を走っていく。
「ひょっとして、家に帰るつもりか?」
シャールは一抹の寂しさを感じて、馬車を止めたまま更に声をかけた。

「だがお前、歓迎されると思ってるのか?」

―雇われた冒険者がきて、またお前をこっぴどくいじめるかもしれないじゃないか。

シャールが馬車を降りると、雨上がりの湿った風が吹き抜けた。

―お前の主人は、いきなりねこいらずを振ってくるかもしれないじゃないか。

ネズミはまだ草むらのはずれに立ってシャールを見ていた。しかしそこで空気の匂いをかぎ、やはり北へと走っていった。

―聞く耳もたずか、頑固なヤツだ。
しばらくして馬車に戻ったシャールは、思い出したようにぽつりと付け加えた。

「生き延びろよ、ちびすけ」

この言葉をネズミが聞いたかどうかは分からない。しかしシャールはそれ以上引きとめなかった。
信じたままに行き、何かを見届けるのならそれもいい。ネズミも人もたいして違うところはないのだ。自分もかつてあの選択をし、敗北を味わい、それでもどん底の苦境からは逃れて、こんな風に生きていられる幸運を得たではないか。

澄んだ夜空には満天の星が静かに瞬いていた。ピドナへはもう一走りだ。
シャールは馬に鞭を軽く当て、ミューズに聞かせる土産話を頭の中で反芻しようとしたが、記憶からは先にこぼれてきたのはメロディのほうだった。

♪♪♪♪‐♪‐♪‐♪♪♪‐♪‐♪‐♪♪‐♪‐♪♪♪

シャールは自分が真面目くさってこう言うところを想像した。

《ミューズ様、本当のことなんです。ネズミが一緒にこれを弾いて拍手喝采だったのです》
そして、ゴンやミッチの笑い声の中で、彼女がどんなに目を輝かせてくれるかを。

あたりはひっそりと静かで馬のひずめの音だけが同じ調子で続き、シャールの頭の中では、相変わらず小さな白いネズミが踊りつづけていた。
 

material by Heaven's garden  
   
[ No,369  サリュ様 ]

-コメント-
書下ろしです。いけにえの穴で勇者にやられたはずのアイツを、シャールのお役に立ててみました。