トリオール・ローズ

  その年の春、侯国から王国へ変わろうというときに、ロアーヌはひどい長雨だった。ミカエルは、シノンに兵士をやって治水工事を手伝わせ、貯蔵庫の食料を分配させた。そして、それで終るつもりはなかった。
「園丁全員を正面の薔薇園入り口に集めろ。話がある」
 そう部下に言うと、手早く書類をまとめ、ミカエルは執務室を出た。
 薔薇園には朝から何事かと緊張した園丁が整列していた。ミカエルはかれらを見渡して、領内の農地を助けるために植物に詳しい者が役立つことを告げ、しばらく王宮を離れてシノンへ赴くようにと命じた。話を理解した園丁たちはすすんで従った。かれらが王宮を離れれば庭園の花が駄目になることは目に見えていたが、ミカエルの言葉は何よりも領民を第一に考えているものだったからである。
 ところが、ずらりと並ぶ園丁の一番後ろにいる若者だけは、何か困ったようにうつむいている。その顔が余りに深刻だったので、ミカエルは彼だけを残らせて話しかけた。
「シノンへ行くのが嫌か、それとも庭園を離れたくないわけでもあるのか?」
「あ、あの、それは……」
 ひざをついたまま若者は口ごもった。彼が抱える理由は私事といえば私事であった。けれども、侯爵はそのわけを尋ねている。若い園丁は決心して、正直に話そう、そしてもしも侯爵を怒らせて斬られるなら斬られようと思った。
「私は、薔薇園のジャルドと申します。この雨のせいで、薔薇の手入れは例年より一層注意が必要で、そして、私が育てているうちの一本は――特別な薔薇なのでございます」
「特別な?」
「はい」ジャルドはきっぱりと言った。「それはかつて、クラウディウス邸にて令嬢の名のついた一本の苗なのです。私はピドナの変のとき、炎上するお屋敷から唯一これを持ち出した園丁でございました」
 驚くミカエルに、ジャルドは後方のバラ苗を指し示した。それほど大きくはないが、葉の形や枝の伸び具合も見事に均整がとれており、開きかけの蕾が上質なビロードのように輝いている。
「ミュルスに逃げた私は、ここロアーヌ宮庭園に雇われました。数年でこの苗も立派に育ち、あとは令嬢ご本人を見つけ出してお返しするばかりです。やっとここまでになった苗を、今枯らすわけには参りません。せめて数日、薔薇園に病気が発生しないと確信できるまでここに残ることをお許しください!」
 ミカエルは地面に顔をこすりつけんばかりのジャルドを見下ろし、あっさりと告げた。
「ジャルド、お前は解雇だ」
 小さくうめくジャルド。だがミカエルは無視したように続けた。
「すぐにピドナ行きの支度を整えろ。令嬢の居場所を知る友人に同行を依頼しておく。その特別な薔薇は、ロアーヌの名誉にかけてお前が元の持ち主へお返しするのだ」
 ジャルドは泥のついた顔を思わず上げた。若きロアーヌ侯爵はあっけにとられた園丁を見て頷き、少し楽しそうに微笑した。
「あ、あっ、ありがとうございます!」
 立ち去るミカエルの背に向かい、ジャルドは半分泣きながらそう叫んだ。
「ありがとうございます、ありがとうございます!!」

 ジャルドはその日の午後には船上の人となった。護衛に兵士二人が従い、ジャルドが使っていた園丁の道具一式と、ずっしりと銀貨の入った皮袋を給金として持たされた。ピドナの港からはトーマスに連れられ、ミューズとシャールの暮らす旧市街の家に到着。すでに夜になっていたためシャールははじめ警戒したが、事情を知ると喜んで一行を招き入れた。そしてトーマスが直接ミューズに向かい、ロアーヌ侯からですと言って手紙を差し出した。

《親愛なるクラウディウス家ご令嬢の名のついた薔薇を、偶然にもロアーヌの庭園にて守れましたことをこの上なき幸運と存じます。“特別な園丁”とともに謹んでお返し致します。
――ミカエル・アウスバッハ・フォン・ロアーヌ》
 ミューズはわずかなランプの明かりで手紙を何度も読み返し、シャールやジャルドたちを見回してにっこりした。そして彼女のその表情は、まさに開かんとする真紅の薔薇にも似た気品に満ちていた。
「この薔薇には私の名だけでは足りないわ。善意と友情に支えられ二度も海を越えた、ミューズ・クラウディア・クラウディウス、別名をトリオールの薔薇と呼びましょう」

   このやりとりのほんの数日後、内乱によりルートヴィッヒは失脚して姿を消した。ミューズとシャールはピドナ王宮に戻り、数奇な運命を辿った麗しきトリオール・ローズはその庭園で、今度は両王国の善意と友情の証として咲き続けることとなったのである。   




[ No,369  サリュ様 名簿 ]

-コメント-
ロアーヌが主な舞台ですが、主役はピドナの薔薇苗です。
ミカエル・ロアーヌ王はとても美味しい役どころになってます。