early bird
早朝にも関わらず、工房には鉄床を打つ槌の音が響く。熱心に働く若い男の背中を見ると、ノーラの緊張した表情も緩んだ。作業に集中しているのか、鈍感なのか、背後の彼女に気付きもしない。
「ケーン」
 仕事中のケーンは、大きめの声で呼んでも、最初はまず気付かない。いつものことだ。二度名前を呼ばれ、鉄槌を持ったまま振り返った彼は、すぐ側にいるノーラに驚いて「おはようございます」と頭を下げた。それから旅支度を整えた彼女を見て、彼女が最初に旅に出ると言ったときと同じく、心配そうに顔を曇らせる。無理もない、今度の旅の行き先は、天文学者が告げた東にあるアビスゲートの、その更に向こうなのだ。
「乗りかかった船ってヤツよ」
 ポケットから煙草を取り出してから、ノーラは作業台に腰掛た。マッチを擦り、火を点ける。
「このまま降りるのは気分が悪いし、武器や防具のメンテができる人間が必要だから?」
 作業を中断したケーンは鉄槌と、ついさっきまで叩いていた小剣を鉄床の上に置いて尋ねた。東のゲートを目指すと彼に告げた時そのままの言葉に、ノーラは頷く。
「そう。だからあたしも行くんだ」
 ブーツの先に視線を落とし、ノーラは呟いた。旅に出ることを納得させようとしているのは、ケーンではなく自分なのだと、彼女は自覚している。彼女には大きすぎる仕事だ。ただ、サラを助けたい。閉ざされるゲートの奥にサラが消えた時に、エレンが流した涙。あの涙を、かつて自分が流した涙と同じものにしたくはない。サラを救う可能性はゼロではないのだ。恐怖と不安、少しの希望、それに悲しい涙はもうたくさんという気持ち――ないまぜになった想いが、時に彼女を怖気づかせ、時に奮い立たせる。迷う自分が、ノーラは堪らなく嫌だった。
 ケーンは厚手のグローブを外してポケットにねじ込むと、壁際にかけられたタオルで手を拭いた。そして隅の小さな戸棚から、ふたつのマグカップを出して、ポットに満たされた熱いコーヒーを注ぐ。その片方をノーラが受け取ると、彼女と向き合うように、彼も作業台に腰掛けた。
「美味しい」
 コーヒーは、ケーンが淹れたものが1番好きだ。旅に出てから、尚のこと思う。彼女は灰皿を引き寄せ、そこに煙草を置いた。
「ねえ、ノーラさん」
 怒らないでほしいんだけど、と前置きしてから彼は続けた。
「僕はもう、ノーラさんは旅を止めても良いと、ずっと思ってた。聖王の槍も取り戻したし、親方の仇も討った。ここでまた、武器工房の職人として暮らしてほしかったし、今もそうしてほしい」
 その言葉は、彼女の気持ちの半分を言い当てている。しかし両手でマグカップを握るノーラは、視線を足元に落としたまま、小さく首を振った。
「ここで止めたら、きっと後悔する。そりゃ、あたしよりもずっと、今回の仕事に向いてる人もいるだろうし、あんたの言う通りにしたいと思うこともあるよ。怖いしね。だけど……」
 彼女はマグカップを片手で持ち直すと顔を上げ、正面に座るケーンの顔を見据えた。サラを助けること、ゲートを閉じること、どちらも目的であり、待ち構えているであろう危機が、彼女を怯ませる。けれど、それだけではない。
「あたし、うちで作った武器や防具を試したいとも思うんだ」
 口にした本人も驚く言葉に、ノーラは初めて彼女だけの旅の目的を認めた。彼女にしかできないことで、彼女がしたいこと。彼女は軽く鼻先で笑い、煙草の灰を落としてから、深く吸い込んだ。他人から見たら、ちっぽけで不謹慎かもしれないが、彼女を旅へと駆り立てる理由のひとつ。
「あたしたちだって、先祖に負けないものを作ってると思うのよ」
 いつもの調子を取り戻したのか、彼女らしい言葉に、ケーンの表情が晴れやかになる。彼が止めようとしたのは、危険な旅ではなく、彼女が義務感だけで続ける望まない旅だったのだ。
「じゃ、試してほしいものが」
 彼は立ち上がると、武器や防具を保管している棚から盾を取り出し、彼女に渡した。彼が作ったものに信頼を寄せながらも、いつもの習慣で、受け取った盾を確認する。まず右の指先で表面を叩くと、硬質な音を立てた。腰に下げたハンマーで打ってみたが、左手にはほとんど震動を感じない。恐ろしく硬く、軽量なこの盾は、一体何で作られたのか、ノーラは首を傾げる。彼女でさえわからなかったので、彼は少しばかり得意になった。
「魔龍公の竜鱗で作ったんだ」
 タフターン山で拾った竜鱗をここに届けると、ケーンは鉄槌で打ったり、槍で突くのはもちろん、炎で炙ったり、雷雨が予想される晩に避雷針の先に括りつけてまで、強度や耐性を確かめたという。
「いい出来じゃない」
 口にしてから、それは親方――父の褒め言葉だと気付き、ノーラは天井を見上げた。仇を討ち、聖王の槍を取り戻してやっと、純粋に父の死だけを悲しめるようになった彼女は、近頃涙もろいのだ。何度か瞬きをして、再びケーンが竜鱗で作った盾の表面を撫でる。
「僕たちはノーラさんの旅に同行できないから、それが代わり。役に立つと思うよ」
 ありがとうと言いたかったが、涙声になりそうで、ノーラは彼を見て頷くと、冷めたコーヒーを飲み干した。
「ここは大丈夫。だからノーラさんも無事に」
「もちろんよ」
 これ以上、彼の優しい言葉を聞くと、涙を堪えきれなくなりそうで、彼女は遮るように答えた。煙草の火を消して、彼女は後ろについた両手で押すように、勢いをつけて立ち上がる。
「聖王の槍も、あそこに戻さなきゃね」
 そして工房の壁を指した。聖王遺物は本来、アビスの脅威と戦う者のためにある。まだ壁には飾れない。だから早く、全ての片を付けてしまおう。マグカップも灰皿もそのままに、ノーラは行って来るよと、ケーンに言った。




[ No,116  りら様 ]

-コメント-
ノーラの旅の目的に、職人の心意気が加算されていても良いと思っています。