ヌーヴォ

 ごとり、とテーブルに置かれたのは、勢いよく湯気の立ち上る香り豊かなグラタン皿。表面にまぶされたチーズにはきれいな焼き色が付き、散らされたパセリの緑は鮮やかに際立って、皿の縁付近ではいまだにホワイトソースが沸々と泡を作っては弾ける、その誘惑はさながらリリスの微笑のよう。
 おいしそうな料理を目の前にして、エレン・カーソンはきらきらと瞳を輝かせながら早速フォークを握り締めた。パスタの海へ突き刺し持ち上げると、内に閉じ込められていた熱とともに湯気が膨らんで、とろけたチーズが長く伸び絡みつく。アツアツなのは言うまでもなく、やけどを負わないように、ふぅっと一息吹きかけて口へと運ぶ。
「はふぅ……」
声にならない感嘆をもらし、満足げに目を閉じた。咀嚼の度に高く結われたミルクティ色のポニーテールが揺れる。しかし余韻も消えぬままに再び目を開くと次の一口へとフォークを繰り出したかと思うと、あっという間に平らげてしまった。
「ああ、おいしかった! デザートも食べたい」
「まったくお前は相変わらず食いっぷりがいいなあ。太るぞ」
「なによ」
 機嫌良く食べていたところに横槍を入れられて、エレンは声の主に睨みを利かせると同時に口を尖らせた。余計なひと言が多いのだと思う。
 二人で旅を始めて、もう数カ月になるのだろうか。エレンの旅の相方は、名をハリードと言った。「褐色のトルネード」という異名を持つ、名うての曲刀使いの男だ。褐色というのはその肌の色を指し、ロアーヌの辺境・シノン村で生まれ育ったエレンには、漆黒の瞳と相俟って珍しい。
 今から十年近くも前に滅びた砂漠の王国ナジュの出身だというが、詳しいことは何も話したがらない。一見はただの仕切り屋で見栄っ張りで、お調子者なところも感じさせるハリードだが、その漆黒の瞳に秘めた真実を、エレンはまだ窺い知ることができないでいた。いや、果たしてそれを知る日が来るのか、甚だ疑問だった。
 ハリードに誘われ半ば強引に旅へと連れ出されたが、エレンにとってそれは救いだった。
 幼馴染で、同い年のユリアン・ノールという青年がいる。ユリアンはエレンに気があるようで、ことあるごとにデートに誘ったりしていたが、一方のエレンはというと恋愛になどこれっぽっちも興味がなかった。仲間としてユリアンたちと一緒にいるのは楽しいが、恋人という関係を望まれるのは意にそぐわない。
 いつだってさっぱりと袖にしてきたユリアンだったが、その彼に突然の変化が訪れる。偶然知り合ったロアーヌ候の妹君、モニカ姫の護衛の任に就くのだと去ってしまったのだ。モニカ姫はしとやかで美しく、エレンだって大好きなやさしい姫だ。
 しかしユリアンのあまりの態度の変わり様に、それまでの自分の言動は棚に上げて、例えようもなく腹立たしかった。自分から振ったはずなのに、どうして振られたような気持ちにならなければならないのか。
 さらにはエレンの妹、サラまでも行ってしまった。そのときがくるまで、サラは自分が守ってやらなければ何もできな無力な娘だと思っていた。面倒を見てやっているつもりで、心のどこかで見下し、侮っていたのだろう。
 エレンから離れ、もう一人の幼馴染であるトーマス・ベントと旅に出たい言うのだ。戸惑いから喧嘩腰な口調で引き止めれば、やはり思いがけず強い反発が返ってきて。愚かなことに、そのときようやく気が付いたのだ。何もできないのは、縋っていたのは、自分なのだと。
 仲間達にひとり取り残されて茫然自失のエレンに声をかけたのが、ハリードだった。考える暇もなかったが、港町ミュルスから乗せられた船の上で明るい日差しに彩られた潮風を感じて、シノンだけでは足りない、どこまでも世界を駆け抜けて行きたいと思ったのだ。トルネードをきっかけに、自分だけの風になるために……。
 そうしていつの間にか、ハリードとの二人旅が日常になっていた。時に野宿を経験することもあるが、今夜はいつもと同じく旅の宿を取り、隣接する酒場で一日の疲れを癒すように寛いでいた。昼間はモンスターを相手にしたり移動したりと動き通しなのだ、エレンはしっかりと食事を取る。ハリードは強めの酒とつまみを少し。
 一度ハリードの嗜む酒を味見させてもらったことがあったが、喉から食道を通って胃までカッと熱くなり、眩暈を覚えた。もう二度と挑戦することはあるまいと思う。楽しく飲むなら、エレンにはワイン一杯で十分だ。フルーティな香りの爽やかな白ワインに口を付けたそのとき、隣のテーブルの囁きがするりと耳に入ってきた。よく知った言葉だが、久しく聞かない。
「お誕生日おめでとう」
 どちらかといえば荒くれ者の多い酒場で、それは不釣り合いにやわらかな声音。慈しむような、愛おしむような。見れば、恋人らしい若い男女が杯を合わせていた。普通の恋人同士が、雰囲気のあるとは言い難いこんな店で誕生日を祝うとは思えず、やはり旅装をしている。
「へえ、珍しいわね。カップルの旅人なんて」
「そうだな。しかし俺たちだって、他の連中からすれば同じように見えているかもしれんぞ?」
「は……」
 自分のことなど全く考えてもいなかった。驚いて目を丸くするのが早いか、頬杖を付いていた方の肘がテーブルから滑り落ちる。数度激しく瞬きをしながらハリードに視線を移すと、にやりとした笑みを貼りつかせて今にも噴き出しそうなのを堪えているようだった。
 恥ずかしさとも怒りとも知れぬ感情に、サッと頬が赤らむのを感じる。もとよりワインのおかげで少し赤みが差している、ごまかせてよかった。
「か、からかわないでよね! ……ねえ。ハリードも誰かイイ人と二人で誕生日のお祝いしたこと、ある?」
 照れ隠しのため、ハリードに意地悪な質問をしてみる。相手を焦らせれば自分は落ち着くことができるというものだ。
「さて? どうだかな」
 しかし予想外の返事に虚を突かれた。なんとも思わせぶりな台詞ではないか。上手く受け流されてしまったとわかってはいても、漆黒の双眸の奥に光る星が気になって仕方がない。
「あるの……?」
「意外そうなのは気に喰わんが、まあいいだろう。お前の想像にまかせようじゃないか。そういうエレンは……なさそうだな」
「失礼ねぇ! そりゃあ、ないけどさ……」
 くつくつと笑うハリードに、子ども扱いされているようでひどく寂しい気分になったエレンは、ぷいと顔を背けた。そんな風にするから子どもっぽいのだと自覚はあっても、拗ねた心はどうすることもできない。
 誕生日は毎年、幼馴染のシノン四人組で祝ってもらっていた。それは四人のうち誰の誕生日でも同じで、プレゼントや当日の演出や、本人には悟られぬよう残りのメンバーで協力して密やかに準備を進めるのはとても楽しかった。それだけではない、大変なことも、苦しいことも、なんだっていつもの四人で乗り越えてきた。
 いつもの……。ついこの間までは、それが永遠に続くかのように信じていたのに。しかしそれはエレンだけだったらしいことは今になれば明白だ。皆それぞれの道へと歩み出しているのだから、悔しいが負けるわけにはいかない。エレンの誕生日も近い、そうすればまたひとつ年が上がって、大人にならなければ。。
 ふと、ハリードの誕生日はいつだろうかと思った。何気なく尋ねかけて喉元まで出かかった声を、危うく呑み込んだ。ひょっとすると、今年は互いが互いの誕生日を、二人きりで迎えることになるのかもしれないと思い至ったからだ。
 エレンは、別にハリードのことを意識などしていない、つもりだ。腕は立つし、年の功だろう頼りになるし、それなりに信用もしているし、旅の仲間としてこれ以上心強い相手はないが、それだけだ。
 時折、人の寝静まった深夜、月を見上げる表情が険しい理由を聞くこともできない。小さく口ずさまれる歌が、誰を想っての歌なのか知りようもない。ハリードはエレンを旅に連れながらも、自分を取り囲むように築いた厚い壁を、決して崩そうとはしないように思われた。
 しかし二人旅ということと隣のカップルとが重なって、想像してしまった気恥ずかしさは、容易に表へと現れ出てしまった。
「どうした? 耳まで赤いぞ。飲み過ぎか?」
「……!! なんでもないわよっ!」
 話せばきっと祝ってくれるとの期待もあったが、気付いてしまうと姑息な気もして、結局言い出すことはできなかった。
 それ以上話さなくてもいいようにと、ワイングラスを手に取る。白いはずのワインは、エレンの顔を映し込んでほんのりと紅く色付いているように見えた。
 
 
 
 Fin.

[ No,542 レネ様 ]

-コメント-
RS3のお誕生日を祝して、という意も込めて。
エレン→ハリード風味でございます。ボジョレ・ヌーヴォのように新鮮な恋を。